第4章 妄想笑気麻酔
※これまでのお話
第1章 静脈内鎮静法
第2章 障害者歯科
第3章 日帰り全身麻酔
「あらゆる手段を使って苦痛と恐怖を回避せよ。医学的に可能であれば」
それは絶対に譲れない主義である。アスペ的こだわりなどではない。
そして、主義はもう一つある。これも絶対に譲れない。
「あらゆる手段を使って文献を入手せよ。時間的、経済的に可能であれば」
参考になる文献の存在を知っても、図書館で取り寄せるのに時間がかかりすぎて締切に間に合わない場合や、あまりに高額で購入できない場合は断念するが、その他の場合は日本語または英語の文献はあらゆる手段を使って手に入れる。大学で卒論を書くときにそのように指導されたし、プロの物書きならば誰でも徹底すべきことである。実際、『古代文明ビジュアルファイル』誌に歴史読物を書いていたときには地元の図書館の貸出冊数に制限がないのをよいことに、2週間毎にあるテーマの本をごっそり自宅に移動していた。
この二つの「主義」が拮抗した場合は私はどちらを選ぶのだろうか?
いや、歯の治療と文献入手が関わり合うことがあるなんて思いも寄らなかった。ところが、ある日、そうした状況がやってきたのだった。
詳細は省略するが、ある出逢いが縁で久々に某誌に歴史関連の文章を掲載してもらえることになり、奮起して参考資料を集めていた。テーマは古代エジプトの女性ファラオ=ハトシェプスト。耽美系歴史ライターを自認する私の執筆意欲を燃え立たせるお題である。
どのような文献がどこに存在するのか、大抵のことはネットで調べられる。そして、学術論文を検索しているうちに、ハトシェプストに関する魅力的なタイトルの論文を見つけた。早速、考古学者の兄にメールを送り、勤務している博物館の図書館にこの論文があったらFAXしてと頼んでみた。送られてきたのはその概要のみで、全文が掲載されている冊子はないという。他にも、大学に問い合わせたり、同じ著者が同テーマで書いた文章が掲載された雑誌を購入したりとあらゆる手段を尽くしたが、論文全文を取り寄せることはできなかった。
それでも、色々検索していくうちに、著者のホームページを発見しメールアドレスを知ることができた。
「あらゆる手段を使って文献を入手せよ。経済的、時間的に可能であれば」
これは、可能なケースに当たるのだろう。ホームページによると、エジプト在住だが日本に滞在中とのことなので。そこで、私としては一大決心をしてメールを送り、論文を読ませていただきたいとお願いしてみた。しばらく返信がなかったのでエジプトに発った後と思い断念することにした。エジプトでのご活躍を祈念するメールを送ると、ご本人から返信が来た。現在、東京在住とのこと。そして、お会いして論文のコピーをいただくことができるとのこと。しかも、ホームページによると私好みの長髪男性らしい。
さて、ようやく「歯」の話に戻るのだが、その頃、上の前歯2本が虫歯になり黒ずんでいるという最悪状態のため、なるべく人前では口を開けないように、手や髪でさりげなく口を隠して喋るようにしていた。日に日に痛く、黒くなっていくのに、あの大げさな日帰り全身麻酔の予約をとる決心がつかず、しかし一般歯科で治療を受ける勇気はなく、どうするべきか悩んでいた。
一方、「ハトシェプストの(論文をいただく)日」が近づいていた。初対面の方に会うには口を隠すしかない。マスクをしていこうかとも思った。ところが、その人とコミュニケーションをとるには、口元を隠さない方がよいということをホームページから知り、私は決心した。
久しぶりにY歯科クリニックに行き、前歯の治療を願い出たのだ。こんなに黒いのだから、削られるに決まっている。そんな恐ろしいことに耐えられるだろうか? しかし、日帰り全身麻酔の予約は早くても2ヶ月先にしかとれない。別に歯が黒くても気にしなければよいのだが、初対面でこの黒い歯を見られるのは嫌という見栄もあり、結局、見栄が恐怖に勝ったのだった。
「ああ、ではすぐに直しましょう。大丈夫です。白くできますよ」
Y先生はそう言ってくれるのだが、私は前歯を削られる!という恐怖に怯えていた。
「あのー、笑気と麻酔を併用してください」
「大丈夫ですよ。神経のない歯ですから。ちょっと響きますが痛みはないはずです」
え? 前歯って神経がないの?
削られるダメージを想像しただけで暴れだしそうだったが、この汚い前歯が元通りに白くなる!と想像するだけで、何とか耐えられそうだった。そして、このとき初めて知ったのだが、私は数年間の読書や執筆から、治療の恐怖を紛らわすだけの妄想力を獲得していた。
Y先生の技術のおかげで、前歯の処置は短時間で済み、幸い、妄想力より見栄のパワーでこの治療を終えることができた。約束通り白い前歯を取り戻すことができた。
その日には田園都市線と山手線に乗って、その人に会いに行き、ハトシェプストの論文のコピーをいただくことができた。もちろん、口を隠さず楽しくお喋りすることもできた。
そんなこともあって少し度胸がついたのだが、まだフォビアを完璧に克服するには至らなかった。
そして、その後さらに深刻な痛みが歯を襲った。静脈内鎮静法に出会うきっかけとなった歯、3本分のブリッジをかけたところがまた痛み出したのだ。付け根がえぐれて黒ずみブリッジにも経年が傷みがあり、前歯ではないが、喋るとき笑うときには醜態が晒される状態になっていた。
やがて、ストックしていたロキソニン(痛み止め)を使い果たし痛みに耐えられなくなったので、Y歯科クリニックに駆け込んだ。
「手前の歯は神経が残ってますね。日帰り全身麻酔の予約を今からとるとなると、さらに進行してしまいますので・・・・・・どうしますか?」
「うっ、考えさせてください」
結局、その日は痛み止めのロキソニンをもらって帰った。しかし、歯科ではロキソニンは3日分しか処方できないらしい。3本連結分のブリッジを取り外して神経が残っている歯を削り、神経を抜く。そんな治療に笑気と局所麻酔だけで耐えられるのだろうか?
ところが、思わぬモティヴェーションが降って湧いてきたのだった。全くの偶然なのだが、あのハトシェプストの方とまたお会いすることになったのだ。その頃にはただただ痛くて歯の醜態なんて気にしてはいられなかったのだが、ふと鏡を見ると、普通の会話で可視の部分が黒くてえぐれていて、見るに耐えられない。歯のことなんて気にしないでちゃんとお話しするには治すしかない。
そしてついに、私は神経の残っている歯の治療を笑気と局所麻酔だけで受けることを決意したのだった。
「よく決心しましたね」
とY先生も言ってくれた。
笑気をたっぷり(?)。麻酔の注射の本数も念のため多めに。針がぶすっと刺すのも痛くて嫌なので歯茎に麻酔テープを貼ってもらう。
そして、妄想の世界へ。今度は治療時間も長いので、どっぷりたっぷり妄想に浸ることができた。ヘルムート・バーガーよりも美しい黒髪のルートヴィヒ2世本人と、マーク・ポネルより美しいリ金髪のりヒャルト・ホルニヒの(以下省略)。
思ったより痛くなかった。と言うか、妄想と笑気が効いてくれたので恐怖も痛みもほとんどなかった。そして何より、その日の治療費は2000円もかからなかった。今まで、かくも長く格闘してきた日々は一体何だったのだろう?
こうして、私は歯科恐怖症を克服した。
この先もう、よほどのことがなければ全身麻酔のお世話になって歯科治療を受けることはないだろう。大抵の治療は一般の歯科で、局所麻酔&笑気で受けることができるだろう。これからの生涯に重く圧し掛かるはずだった全身麻酔治療のための莫大な治療費ともったいない時間、そして治療遅延のために悪化する歯痛。苦痛と恐怖を回避するための無駄な苦痛から逃れることができるのだ。
ありがとう! ありがとう!
さあどうぞ、読唇術を。
※最初の画像 新アレクサンドリア図書館(Wikipediaより)
Exterior photo of the Bibliotheca Alexandrina library in Alexandria, Egypt.
Photo taken by Hajor, December 2002. Released under cc-by-sa and/or GFDL.
本文と関係ないですね。
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