2009.04.10

がんばらない音楽

Glvr
歌をがんばってきた。

時間もお金もかけた。本番前には健康管理もがんばった。仕事さえ控えることもあった。それでもまだこの程度? と自分でも思うが、ともかく声を維持するのにがんばってきた。がんばらなくても、いつでもどこでも軽ーく歌える才能があればよいのだが、もしそんな才能をもっていたら、もっともっとがんばって、上を目指していたかもしれない。

実は、「もっと上を目指すべきよ」と師匠に言われてその気になりつつあるので、歌はもっともっとがんばっていこうと思う。

でも、たまにはがんばらない音楽も楽しみたい。一番手軽に楽しめるのは「歌」のはずだが、歌うたびに、この音域の発声はこれでいいのだろうか???なんて考えてしまうのでどうもいけない。ピアノもがんばらなければ弾けないレベルだし、リコーダーで楽しもうと思ったが、どうせなら良い音を出したいと、良い楽器を購入してがんばるハメになってしまった。

Whistles_2
そこへ出会ったのが「アイリッシュ・ホイッスル」。これならがんばらなくてもかわいい音が出るし、私にとってはリコーダーよりも音域が広い。がんばらなくても2点G以上の高音を出すことができるのだ。楽器が安いのもいい。楽器+CD+楽譜付教則本で3000円以内で買える。すぐに2本目の少し良いのを買いたくなって買ったが、1700円代で買えた。

吹き方はリコーダーとたぶん同じ。しかも高音がラクなので、すぐに吹ける。手入れも簡単。ヒョロ~とした情けない音色もまた味わいがある。それですぐに吹き始めたら、すぐに病みつきになった。

アイリッシュな曲は、にぎやかでダンサブルなものや、どこか懐かしいメロディアスなものなど、ヴァラエティに富んでいるが、どれもかわいらしく癒される曲だ。いろいろあるけど、ま、なんとかなるさ~♪的なノリがうれしい。'70年代の日本のフォーク・ソングに通じるものがあるようにも思える。

そんなわけで、アイリッシュ・ホイッスルに夢中になっている。がんばらないで続けていきたい。


※最初の写真は、横浜元町のセント・パトリックス・デイ・パレードで撮影。

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2009.03.26

アイリッシュ・ホイッスルに癒されて

 私はソプラノ・レッジェーロ・コロラトゥーラ。役どころは、夜女王、ルチア、オランピア・・・・・・。達成度はともかくとして、水のように、光のように煌きのある声を目指している。コロラトゥーラなので、技術的習熟が必須だが、できれば声帯を健全な状態で長く温存したいので練習のし過ぎは禁物。

 しかし、今、自分の声をあまり聴きたくない心境。歌うにも聴くにも、どうも癒し系ではないので。何か、楽器を演奏したい。ヒュルーとした侘しさのある音の楽器。頑張らなくても演奏できる楽器。リコーダーを吹いてみようとも思ったが、管を接続するのが面倒。それほど、無気力な状態。

 そんなとき、出会ったのが、アイリッシュ・ホイッスルなる笛。直線状の金属管にマウスピースをつけただけのシンプルさ。ケルト愛から出向いてみた、セント・パトリックス・デイのパレード。その行列の中の楽団に、ヒョロ~という頼りない音をの笛を吹くたくさんの人たちがいた。グリーンのアイルランドの民族衣装を着て、楽しそうに吹いている。楽団の中ではどちらかといえば地味な存在だけど、リズミカルに主旋律を吹く重要なポジション。

Whistle
 早速ネット検索すると、アマゾンで買えるので、笛+教則本+CDのセットを衝動買いしてしまいました。本当にすぐ吹ける。キーはDだけど、運指はソプラノリコーダーとほぼ同じ。しかも、高音はソプラノ・リコーダーよりも出しやすい。CDを聴いて、楽譜をみて、すぐに何曲かマスター。この手軽さがイイ! 音楽って極めるのには深く険しい道を辿らなければならないけど、このくらい簡単に始められると嬉しい!

 吹き続けるうちに、CDのお手本演奏のようなヒュル~と物悲しい音が自分でも出せてるような気がしてきて、パレードで聴いたダンス曲や「サリー・ガーデン」や「春の日の花と輝く」「庭の千草」のような有名なアイルランド・ソングを吹いてみる。この音! 今、自分的に癒されるのはこの周波数のこの音だったのだと、自己満足。自分で何度か歌ってみたけど、何か違うような気がしていた。この笛のようなニュアンスが、私の声にはない。

 本当はアイリッシュ・ハープを弾いてみたいのだけど、敷居が高くて頓挫。しばらくこのお手軽&お気軽な笛、アイリッシュ・ホイッスル(=ティン・ホイッスル)で遊んでみることにする。花粉の季節が終わったら、歌も再開する予定。


※写真は衝動買いしたWalton社のセット(¥2980)。てっとり早く始めるにはとりあえずこれでもよいかと。私は始めて3日にして2本目が欲しくなり、CLARKE社のを注文中。

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2009.02.11

気合が入る「夜の女王のアリア」

聴くと気合が入る曲・・・それはやっぱり、夜の女王のアリア復讐の心は地獄のように」(モーツァルト『魔笛』第2幕)ですよ。コロラトゥーラ・ソプラノとして、自信をもっておすすめします!

母が娘に殺人を唆すという極悪な歌で、これで抽入される気合はどんなにダークな気合かと思われるかも知れませんが、歌詞の意味はともかくとして、こういう煽り系音楽には本当に元気づけられます。

同じ『魔笛』の第1幕の夜の女王のアリアは、真意はともかくとして、歌詞も健全な煽り系。でも、テンションが燃え上がるのは、やっぱり第2幕の復讐のアリアの方。嵐のように激しいフレーズ、ハイFの応酬。もやもやしたものをきれいさっぱり吹き払ってくれます。うじうじしているときは、歌詞の意味はともかくとして(どうせドイツ語だからわからないでしょう?)、「夜の女王のアリア」を聴きましょう。

生で聴きたければ、私が歌ってさしあげましょう。


コネタマ参加中: 聴くと気合が入る曲を教えて!

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タナトスなる音楽に寄せて

Otaru
タナトス」とは、ギリシャ神話に登場する神の名。臨終を迎える人の魂を奪い去って行く死神。

フロイトの用語では、「生の本能に対する、無機物の不変性に帰ろうとする死の本能(衝動)」。

言うまでもないが、タナトスの反対語は、「エロス」。ギリシャ神話の翼もつ愛の神の名。そして、フロイトの用語では、「性本能・自己保存本能を含む生の本能」。

生物は、エロスの成就のために生きているというのが正論。しかし、タナトスもまた魅惑的である。うっかり、タナトスに取り憑かれているようなことを口走ったら、精神異常者か危険分子として隔離されてしまうだろう。

しかし、フロイト先生の仰ることにも一理ある。死すべき運命にある我ら生物は、タナトスへの願望も抱えもって生きているのかもしれない。死への本能、死へ向かう官能に耽溺したいという願望は、実は誰にでもあるのかも知れない。そして、どこまでも反社会的なタナトスの甘美に浸りたいと思うのなら、そういう自分であることを打ち明けてしまいたいと思うのなら、実は誰にも非難されずにそうする方法がある。

それは至極簡単なこと。ただ、音楽を聴けばいい。例えば、オペラ。死によってしか結ばれることのない禁断の愛・・・といった究極の愛と死のドラマが繰り広げられるグランド・オペラのアリアには、タナトスを歌ったものも少なくない。

例えば、ドニゼッティの代表作『ルチア』。 マリア・カラスの解釈によれば、最初から狂っている姫ルチア。狂乱のアリアはもちろんのこと、登場してすぐに歌うアリアに既に彼女の情熱がタナトスに向かうものであることが暗示されている。甘美な愛の二重唱にも、エロスよりもタナトスの香りが濃厚に漂っているように思える。

自死願望を熱っぽく語ろうものなら、親切な人によって隔離病棟送りになるかも知れないが、「オペラが好きなの。特に『ルチア』が好き!」と言えば、高尚な趣味をお持ちね・・・と聞き流してくれるだろう。タナトスへの衝動を抱えもって生きるのが人の本性なら、普段からオペラやタナトス性が濃厚な音楽を聴いて、それを健全に昇華させておくのがいいだろう。下手でもいいから、演奏してみるのもいいかも知れない。音痴でもいいから、『ジョコンダ』の「Suicido!」を熱唱してみるといい。

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2008.03.05

「ジェリコの戦い」

ジェリコの戦い」という黒人霊歌がある。「Joshua fit the battle of Jericho, Jericho, Jericho....」のリフレイが勇壮ないかにもアメリカ的な歌のように聞こえるが、実はこの歌、『旧約聖書』の「ヨシュア記」に記されたイェリコ攻略を歌ったものである。エジプト脱出後、ユダヤ人たちはモーゼを継いだ指導者ヨシュアに率いられ、神が与えると約束した地カナンへ向かうが、イェリコの堅牢な城壁に阻まれる。しかし、神の奇跡により、鬨の声をあげラッパを吹き鳴らすと城壁は崩れ落ち、イェリコは陥落する。そして、「聖絶」の名目のもと、諜報員に協力した遊女ラハブの家族を除き、住民は全員虐殺される。

 「ヨシュア記」は先住民殺戮の描写があることから、『旧約聖書』の中でも現代の読者に受け入れ難く、説教などで取り上げられる機会も少ないといわれるが、実はこの物語は後世の創作である可能性が高い。キャサリン・M・ケニヨンの発掘調査の結果、紀元前1550年頃、エジプトのヒクソスに破壊された後、壁は再建されず、ヨシュアの時代はおろか、出エジプトよりも早い時期に消滅していたことが確認されたのだ。『旧約聖書』で強調された堅牢な壁のイメージも、イェリコが過大評価される一因となったようだが、迫力ある壁の存在が崩壊後も語り継がれ、当時においても実際以上に恐れられていたことは確かである。


↓「世界最古の街」として有名なイェリコについては、こちらをどうぞ!
『週刊古代文明ビジュアルファイル』56号 文明の芽生えた地 世界最古の街イェリコ

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2007.11.05

甘美なる音楽へ

P8030041
「音楽は常に前へ前へと進んでいきます」

それは、さるコンサートのときに、パートナーのソプラノ歌手ろんりさん(芸名)に語ってもらったMCの台詞。あのコンサートにはぴったりのメッセージだったし、ろんりさんの前向きなオーラあふれる声で語られると説得力があった。会場の反応も良かったように思うし、何より考えた本人が感動していた。


でも、あれは実は私自身の不勉強ゆえの言葉だったかも知れない。
と、昨日、気がついてしまった。


歌ってばかりいたから、音楽の基本的なことがわかってなかったから、あんな台詞が思いついたのだと思う。歌の場合は、歌詞の力で文学的に前に進めてくれるし、オペラのアリアはその歌がどんなシチュエーションで歌われるのか決まっているので、ストーリーに従って時間的にも前に進む、ポジティブな音楽であるといえる。


ところが、最近、ピアノを弾くようになって、音楽は常に前に進むわけではない、音楽は必ずしもいつも、前へ進め!というポジティブなメッセージをもっているわけではないと、わかってしまった。楽式からいっても、A-B-Aの様式の曲や再現部のあるソナタ形式の曲は、過去に戻る音楽だといってしまってもいいと思う。歌詞がついていたら、ストーリーの展開があるから前にも進むのだが、言葉で解説されない純粋で抽象的な器楽曲の場合、過去に戻ったような、落ち着くべき元のところに回帰したような印象を受ける場合が多い。少なくとも、私の場合は。


私の場合、再現する楽式でなくても、音楽が後ろに進むこともよくある。たとえば、ピアノを弾きながら、聴きながら思いをはせるのはいつも過去のこと。好みの曲ばかり弾くせいか、明るい未来へ向かう前向きな気持ちなんかにならない。甘い追憶に浸るのは前向きではないけど、進歩も飛躍もないけど、なかなかいいものだ。強引に未来へ前へ引っ張って行く音楽なんて聴きたくない。弾きたくない。停滞してていいから、過去への追憶にどっぷり浸るだけでもいいから、甘美なるものをただただ感じていたい。ショパンのノクターンの中では、甘ったるい1番が好きな私が無上の幸せを感じるのは、ただただ音楽の中にぽわんとたゆたうとき、まどろむとき。
 
 
   

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2007.07.25

「チャルダッシュ」の更新

Bocini1_2
「チャルダッシュ」(モンティ作曲のヴァイオリン独奏曲)は、別に私のテーマというわけではない(イメージ違うでしょ?)。 単に印象的で旋律を覚えやすいからというだけの理由だろうが、私の脳裏には「チャルダッシュ」が響いていることが多い。私の中に聴こえてくる「チャルダッシュ」は、いつも特定の演奏者によるもので、それは度々更新される。
大抵は生演奏で聴いた「チャルダッシュ」なので、自分も出演するコンサートの共演者か、聴衆として訪れたコンサートの出演者(世界的に有名な奏者)であることが多い。
私の感性は流動的なので、「チャルダッシュ」はふとしたきっかけですぐに更新される。しかし、「チャルダッシュ」が更新されるのは私にとって一大事だ。かなりの頻度でインナーBGMで流れている音楽が変わるのだから。

さて、先日、私の「チャルダッシュ」がまた更新された。かれこれ半年以上も或る一つの「チャルダッシュ」がリフレインしていたのに。それは、昨年クリスマスに出演したサロンコンサートの共演者、つきみ野の天才美少女ヴァイオリニスト永井木綿花さんの「チャルダッシュ」だった。その日から私の中でリフレインされるのは、いつも彼女の「チャルダッシュ」だった。その後も「チャルダッシュ」を生で聴く機会はあったのだが、更新されることはなかった。

Bocini2_2
しかし、更新のときは突然に訪れた。最新の更新は2007年7月13日。「超絶のコントラバス」なるコンサートに行ったのがきっかけだった。今、私の「チャルダッシュ」は、コントラバスの「チャルダッシュ」である。奏者はアルベルト・ボチーニ。コントラバスの古楽器によるダイナミックでそして繊細な「チャルダッシュ」の虜になってしまったのだ。チェロのように座して、長い髪を揺らめかしながら激しく弾く姿もブラヴォ。おまけに私好みのV系奏者なので、すっかりミーハー的ファンになってしまった。

というわけで、今の私の「チャルダッシュ」は、アルベルト・ボチーニのコントラバスによる「チャルダッシュ」です。次の更新はいつ?

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2007.01.30

モーツァルト・イヤーを終えて

2006年は、生誕250年のモーツァルト・イヤーだった。

私はインディーズ系サロン歌手(ソプラノ)なのだが、
自分的にはモーツァルト・イヤーを満喫することができた。

レパートリーはあまり増やせなかったが、
モーツァルト・オンリーなプログラムで演奏会に出演したり
モーツァルト特集のあるコンサートを企画したり・・・と、
モーツァルトを存分に楽しむことができた。

1991年の没後300年のときにはまだ声楽を習い始めたばかりだったので、
ツェルリーナのアリアがやっと歌えるくらいだった。
楽しもうにも力量が足りなかったが、2006年には、夜の女王ドンナ・アンナも歌えた。
素敵な音楽仲間もいたので、ヴァイオリンとピアノとの共演で
オリジナル・アレンジの「きらきら星変奏曲」を発表することもできた。
15年間の練習の成果である。


しかし、世界的には、1991年の没後300年のときと比べると、
盛り上がりが今ひとつだったのでは?

私の知る限り、モーツァルトな映画は公開されなかったし
(1991年には『アマデウス』があった)、
出版の方も大衆的なものが中心だったように思える。
BSで『毎日モーツァルト』なる番組はあったが、
1991年にはもっと贅沢なオペラ特集が楽しめたように記憶している。
モーツァルトな演奏会は盛んに行われたようだが、
1991年の比ではないように思える(統計データで分析したわけではないが)。


「没後〇周年」より「生誕〇周年」の方が盛り上がりそうな気がするが、
一体どういうわけだろうか?


「・・・では次に、モーツァルトの曲を4曲続けます。今年は生誕250年のモーツァルト・イヤーです。ですから、モーツァルトを存分に楽しもうと思って、いろいろな演奏会でモーツァルトばかり歌ってきました。だって、次のモーツァルト・イヤーは、35年後。モーツァルトが生きた年月を自分のこの年にプラスして生き延びなければ迎えることができないんですもの。何とか薄命・・・とかいいますけど、私がそんな年まで生きていることはないと思いますから、今年のモーツァルト・イヤーを満喫しましょう!というわけです」

と、あるサロンコンサートのMCで私は語った(長…)。
そして、気がついた。

没後〇周年というのは、モーツァルトが生きた35年間を自分の年にプラスして生き延びてやっと迎えた人たちにとって、格別に感慨の深いものであると。モーツァルトが駆け足で生きぬいて名作をこの世に残した35年間に自分が成し遂げられたことを思い、人それぞれの感慨があるのだろう。生誕〇周年のときに成し遂げられなかった案を35年間あたためて、没後〇周年に実行ということもあり得るかも知れない。

〇人薄命とは言う^^;;)が、私も生誕350年のモーツァルト・イヤーを迎えることは不可能ではない。そのときにはもう「夜の女王のアリア」は無理だろうが、モーツァルトに1冊の著作を捧げることができないものかと思う。

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2006.07.19

夜の女王のアリア

ソプラノ・レッジェーロに生まれて

 モーツァルト作曲『魔笛』第二幕、夜の女王のアリア「復讐の心は地獄のように」はソプラノ・レッジェーロ・コロラトゥーラである私の十八番である。ソプラノ・レッジェーロ・コロラトゥーラは、あらゆる声種のうち最も軽く、高い音域を担い、転がす歌唱を得意とする。太い声を持っていないのでテクニックで誤魔化す、と言ってしまってもいいかも知れない。
「あなたは声量もないし、響きもないから、テクニックと音域で聴かせなさい」
と、前の師匠に言われたことがある。


 声量も響きも乏しく、テクニックと音域で聴かせる歌というのは、当然ながら魅力がない。声帯を転がして十六分音符や三十二分音符が続くアクロバティックな歌唱を披露してみたところで、声そのものに魅力がなければ、感情がこもっていなければ、人は感動しない。そのパッセージがアクロバティックであることさえ気づいてもらえない場合もあるし、絶対音感のある人か知識のある人でなければ、「今のハイEsは良かった!」等と評価してもらえない。
 コロラトゥーラの聴かせどころが満載のオランピアのアリア(オッフェンバック作曲『ホフマン物語』)よりも、旋律的には単純で音域も広くないトスカのアリア(プッチーニ作曲『トスカ』)の方が感涙を誘う。


 私のようなアマチュアの場合、アクロバティックなアリアを最後まで完璧に歌うには、途中で声帯が壊れないように気をつける必要があり、声の出し具合を頭脳的にコントロールしなければならない。感情をこめて歌う、どころではない。楽譜をこなし、ヴァリエーションにも挑戦しながら、楽譜よりも1オクターヴ上げた最後のロングトーンまで声を温存しようとしたら、感情にまかせて声を張り上げること等、一度もできない。
 このように苦労して歌っても、人の心に響くのはパミーナやミミのリリコな歌だし、器楽的なテクニックを駆使しても蚊の鳴くような細声ではジョコンダやアイーダのドラマテッィコな生の叫びに吹き飛ばされてしまう。


 要するに、ソプラノ・レッジェーロ・コロラトゥーラは、損な役回りである。いっそ辞めてしまいたいが、持って生まれた声がレッジェーロなので仕方がない。そんなソプラノ・レッジェーロ・コロラトゥーラのレパートリーのうち、「夜の女王」だけは別格である。第二幕のアリアにハイF(3点F、五線譜の最上線上のファより1オクターヴ上のファ)があることを、多くの人が知っている。この四つのハイFをこなせば、それだけで拍手喝さいである。また、全体的に音が高いので、全てを難なく響かせることもできるし、曲想が激しくクライマックスに高音域の旋律が集められているので、声量がなくても周波数の関係で十分迫力ある歌に聴こえる。


 そんなわけで、最近、夜の女王ばかり歌っている。まるで何とかの一つ覚えなので、新しいレパートリーを開拓してゆきたいが、今、私が歌って一番喜んでもらえるのはこの曲のようだ。
 実はこの曲で最も難しいのはハイFではなく、後半の三連符が続く箇所であるが、ようやくここをブレスなしで歌えるようになった。
 太い声、響く声が出せるようになるなら、ハイFなんていらない、あなた(誰?)にあげる! と何度も思ったが、私の持ちものの中で一番価値のあるのは、現在のところこれかも知れない。「夜の女王」の最年長記録を更新するのが長期的な目標である。


 いやいや、このままではいけない。テクニックと音域を温存しながら、声量と響きを充実させていくことが理想。次に挑戦するのはドンナ・アンナのアリア(モーツァルト作曲『ドン・ジョヴァンニ』)。ドンナ・アンナはグルベローヴァもリパートリーにしているが、実はレッジェーロ向きの役ではない。テクニックのあるリリコ・スピントくらいの重めのソプラノが歌った方が良いのだろうが、コロラトゥーラなパッセージが聴かせどころになっているので、軽くてもテクニックのあるソプラノが歌うことが多い。このアリアの最高音は2点B。音域的には物足りないが、知的なコントロールをしないで自然に歌っても、最後まで持ちこたえられるかも知れない。かくして私の歌は続く。

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2006.06.13

コンサートのお誘い♪

 ジェース・ムジクス、2006年 ジョイント・リサイタル

 6月25日(日) 
 
 開場 14:45 開演 15:00  


 曲目

  カーペンターズ『イエスタディ・ワンスモア』

  ヴィターリ:シャコンヌ

  モーツアルト「スザンナのアリア」

  モーツァルト 「アヴェ・ヴェルム・コルプス」

  モーツァルト 「復讐の心は地獄のように」  他                           

 出演:
  田中 雅子 ソプラノ   野崎かおり ソプラノ   遠野阿璃子 ソプラノ  
  相原颯貴 ボーイソプラノ
  永井木綿花 ヴァイオリン
  山内達郎 コンテンポラリー・アルト・リコーダー
  雛形香織 ピアノ伴奏

 入場料:無料

 会場:神奈川県横浜市旭区民文化センター
    サンハート音楽ホール
    http://www.city.yokohama.jp/me/asahi/kuminriyo/sisetu/sanhato.html

 交通:JR横浜駅から相鉄線に乗車11分,
    二俣川駅前ビルライフ5F

 ※曲目、出演者等はかわるときがございます。ご了承ください。

 http://members.goo.ne.jp/home/musics-j

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2005.10.12

モーツァルトの臨終に立ち会う

W.A.Mozart: Requiem d-moll KV626

 それが錯覚であることを私は知っている。
 しかし、私は敢えて言う。
 モーツァルトの臨終に立ち会った。
 と。

 『レクイエム KV626』を全曲聴き終えたところで、確かにそう感じるのである。
 絶筆「Lacrimosa(涙その日)」の8小節目で、モーツァルトは息絶える。
 その後も音楽は続く。
 「Lacrimosa」に至って、哀しみは極まる。
 しかし、その哀しみはあまりに美しくて涙さえ出ない。
 弦楽のハーモニーにのって、合唱が繊細に厳かに「涙」の旋律を歌う。
 ジェスマイヤー版の「Lacrimosa」は短すぎて完結していない感がある。
 モーツァルトの死を看取った感傷に浸る間もなく、音楽は次へと展開していく。
 モーツァルトは恐らく、長すぎる感傷を好まないだろう。
 死を超えてなおも、音楽は展開していく。
 モーツァルトは『レクイエム KV626』を完成させることはできなかった。
 弟子の手に委ねられて完成したこの最後の曲はやはり、
 モーツァルト自身の鎮魂歌である。

 かくも多くの人がこの曲を音楽ホールや聖堂で聴く度に
 モーツァルトの臨終に立ち会うことになる。
 「Dies irae」の激しさを超えて、「Lacrimosa」の哀しみを超えて、
 最後の響きに至ったとき、モーツァルトの昇天を見届けたと、
 私は確かに感じたのだった。

   
 

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2005.10.03

少年たちのレクイエム

世界トップレベルの実力! 日本最古の伝統! 日本唯一の男声だけの混声四部合唱。
至高の響き ボーイ・ソプラノ、モーツァルトに輝く!

グロリア少年合唱団特別演奏会 2006年ポルトガル・スペイン演奏旅行プレ公演
2005年10月9日(日) 14:00開演 鎌倉芸術館大ホール 

grolia


ura↑チラシ表   *クリックすると原寸サイズで見られます。
←チラシ裏    

インターネットでのご注文はこちらへ
*当日券も発行される見込みです。 
全席自由 2,500円


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2005.09.22

至高の響き

グロリア少年合唱団 第45回定期演奏会 レヴュー
2005.4.8. 鎌倉生涯学習センター

420余年前「地の果てからの使者」4人の少年は海を渡った…
「天正少年使節の旅」
―葡萄牙・西班牙そして伊太利亜へ―

品格を感じさせる舞台

 グロリア少年合唱団は、1959年に創立された、日本最古の歴史を持つ少年合唱団である。鎌倉カトリック雪ノ下教会を本拠地とし、ヨーロッパの伝統的スタイルによる本格的な宗教曲に取り組みつつ、定期演奏会や特別演奏会では、世界の児童合唱曲や音楽劇、オペラも取り上げ、豊かなレパートリーを確立している。
 今回のテーマは「天正少年使節の旅」。第一部では、天正少年使節が旅したイタリア、スペイン、ポルトガルの歌が特集され、第二部では、天正少年使節を題材としたオペラ『忘れられた少年』第一幕から13曲が演奏された。OB中心のグロリア男声合唱団も出演。
 定期演奏会も今年で45回目を数える。半世紀近く確実に、独自の音楽が受け継がれてきた伝統ある少年合唱団ならではの品格を感じさせる舞台であった。

 ここでグロリア少年合唱団を語るうえで重要な要素である「クラス」編成について触れておく。。
 ●Cクラス  ちびっ子クラス。幼稚園年中~年長。
 ●Bクラス  二部合唱にも挑戦。小1~小3。 
 ●GMクラス 混声四部合唱に取り組む。小4~変声前がG、変声後~高3がM。
 GMクラスは、メサイア演奏会や聖堂演奏会、海外演奏旅行等で本格的な宗教曲に取り組み、高い評価を博している。卒団後はグロリア男声合唱団に入団し、生涯に渡って音楽活動を続けていくことも可能だ。私が理解している限りにおいて、グロリア少年合唱団では、各クラスの独自性が重視された音楽教育が徹底されている。Cクラス、Bクラス、GMクラスは、別々に練習を行い、共に歌うことはあまりない。今回の定期演奏会でも、このスタイルが貫かれており、最後の全体合唱を除いて、各クラスが独自のプログラムを演奏した。


第一部 ポルトガル、スペイン、イタリアの歌

 第一部では、まず、Bクラス、Cクラスが児童合唱に編曲されたポルトガル、スペイン、イタリア各国の歌を歌った。初めて聴く曲も多かったが、幼い少年達が完全暗譜で真剣に、そして楽しそうに歌っている姿が微笑ましく、どの曲も親しみを持って聴くことができた。

 「ちびっ子クラス」のCクラスは、いかにも元気で可愛らしい。十人くらいの少人数で、(幼児だからという贔屓目はなしで)十分に観客が共感して楽しめる歌を歌っていたのだから、一人一人が十分な声量を持っている(あるいは効果的な発声法を体得している)と評価してよいだろう。
 選曲も良く、まさにこの年頃の子供の声で聴きたい曲が選ばれていた。どの曲も魅力的だったが、特にイタリアの子供の歌「がちょうのおばさん」や「自転車になったカメの歌」といった、動物が出てくるファンタジックな歌が特に楽しかった。訳詞を楽しめたということは、日本語の発音が良いということである。愛らしい持ち味もさることながら、発声と発音という基本がこの年代にしてしっかりとできている。今後の成長が楽しみである。

 小学校低学年の児童によるBクラスには、Cクラスの童謡とは一線を画する選曲がなされており、「禁じられた遊び」等、馴染みの深い曲もあった。ポルトガル語やスペイン語の原語の曲も難なくこなした。変声前の少年に限定したいわゆる少年合唱団のイメージに近いのは、Mクラスと共に混声四部合唱に取り組むGクラスよりも、むしろBクラスの方かも知れない。ソプラノ、アルトの二部合唱のハーモニーも美しく、特に短調の曲の繊細な響きが心に残った。
 1曲目よりも2曲目、2曲目よりも3曲目と、時間を経るにつれて、声が調子に乗っていくのがはっきりとわかり、その場のムードを共有して共感しながら盛り上がっていく合唱の面白さが感じられた。

 第一部の最後を飾ったのは、GMクラスによるヴィヴァルディの『グロリア』。いきなり、圧巻である。グロリア男声合唱団の大人も交えてのテノール、バスに、ボーイソプラノ、ボーイアルトの清澄な響きが映える。重厚なテノール、バスに埋もれない凛としたスピントな響きが変声前の少年の歌声にはある。特に、豊かな声量と響きを持つ変声直前直後のボーイソプラノ/アルトの声が輝く。絶妙なバランスである。
 BCクラスにはある音域を超えると声が裏返る歌い方であったが、Gクラスにおいては完全に克服されている。
 「Gloria! Gloria! Gloria! 」とリフレインされるグロリア唱に、グロリアの本領が全開で発揮される。無垢とか純粋とか言った言葉がぴったりなBCクラスの歌を楽しんだ後に、突然、GMクラスの『グロリア』、昨年の特別演奏会でも演奏した十八番のレパートリーをぶつけてくるのは効果的、と言うか衝撃的である。第一部を通じて、C,B,G,Mと成長していく少年達のドラマ、大きな音楽の流れが感じられた。


第二部 柴田南雄作曲 オペラ『忘れられた少年』第1幕より

 当演奏会のテーマである「天正少年使節の旅」を描いたオペラ『忘れられた少年』の第一幕をオラトリオ形式で上演。派手な演出はないが、団長で指揮者の松村先生の力強く気品ある語りに導かれ、合唱の魅力が生きる感動的な舞台に仕上げられていた。
 G(ボーイソプラノ、ボーイアルト)のみの曲、M(テノール、バス)のみの曲もあり、それぞれの魅力を楽しむことができた。
 歌は声帯だけではなく全身の響きで歌うものであるから、一般に(テクニックの問題もあるので一概には言えないが)体格が充実していると響きも充実してくる。子供であるボーイソプラノ/アルトに十分な響きを求めるのは難しいが、Gクラスの中学生の団員には、それが可能だ。幼い頃からグロリアで磨き上げられた声が、逞しく成長しつつある全身に共鳴して、芯のある美しい響きに昇華する。その響きは、女声のソプラノやアルトとは異質の、青年へと進化していく過程にある少年の声、若々しい男声の響きである。その境地に至ったらもう変声期も近いということであり、Gのみで歌われた短い曲『信じましょう、主のみわざを』では、そんなボーイソプラノ/アルトの声をちょっと感傷的な思い入れをもって堪能した。
 M(+グロリア男声合唱団)のみの曲には、技術的なレベルの高さが感じられ、序曲に続く導入曲である『ときゆく者のヴォカリーズ』の迫力のあるハーモニーに圧倒された。『O Vos Omnes』(T.L de ヴィクトリア作曲)では、ヨーロッパの教会音楽の伝統であるファルセットの歌唱も披露した。これだけの人数による男声ファルセットの合唱を聴いたのは初めてであり、その暖かみと深みのある声に癒しを覚え(ファルセットにはもう一つ特異な種族が存在することを私は知っているがここでは触れない)、ファルセットの魅力を知ると同時に、ボーイソプラノの魅力を再確認した。
 第二部では、Gクラスの小6~中1くらい(天正少年使節が旅立った時とほぼ同年齢)の団員が従者服を着てソリストを務め、語り、歌唱ともに好演した。戸川先生(前日に交通事故で重傷を負い車椅子で出演!)と服部先生によるヴァリニャーニョと大名の二重唱、陣内先生によるベルナルドのレシタチーフとアリアも素晴らしく、少年達が目標とするに申し分ない歌声であった。

 奇しくも、当日は教皇ヨハネパウロ二世の葬儀の日であり、天正少年使節がローマを訪れたときにもちょうど教皇の葬儀が行われていたらしい。グロリアの第1回海外演奏旅行で謁見したヨハネパウロ二世を偲んで歌が捧げられた。
最後を飾ったのは、天正少年使節が最初に上陸したポルトガルの民謡『ローズマリーの歌』。ここで初めてグロリア少年合唱団、グロリア男声合唱団、指導者の全員が舞台に上がり、大合唱となった。約100名を擁するという団員の数、そしてその歌声に、これからも確かにグロリア少年合唱団の歴史が続き、この音楽が受け継がれてゆくという希望を感じた。

 幼児のあどけない歌から、純粋な児童合唱、至高のボーイソプラノ/アルト、青年の若々しいテノール/バス、重厚な響きを持つ大人の声、そしてファルセットまで、男声歌唱芸術のあらゆる要素を堪能することのできる演奏会であった。
 10月5日には、 グロリア少年合唱団の 特別演奏会が鎌倉芸術館大ホールで開催される。天正少年使節の行程を辿り鎮魂歌を捧げるスペイン・ポルトガル旅行のプレ公演である。四月の定期演奏会の成功から半年近く経つが、このときの舞台で味わった感動が次の特別演奏会でも生かされてくるだろう。この夏、少年たちは、厳しい合宿や普段の倍以上の練習でさらなる研鑚を積んだ。熱い夏を越えて、この秋、彼らの芸術がまた新たな豊饒をむかえ、至高の輝きを放つことが期待される。
 


*遅れ馳せながら(遅れすぎ!)のレヴュー。ブログの文章としては長すぎてすみません。コンサート評としては長くないでしょ? 未校正なので後でまた直します。

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2005.08.15

歌の翼に (訳詞)

歌の翼に

         原詩: ハインリヒ・ハイネ
         曲:   メンデルスゾーン
         訳詞: 遠野阿璃子


歌の翼に 君をのせて
夢は遥か ガンジス
うるわし彼方
月の光に 紅き花咲き
水面の花も君を誘う
水面の花も君を誘う


星はきらめき すみれは微笑み
夜の薔薇はメルヒェン
語りて香る
森のそよぎに 小鹿は駆けゆき
清き泉は 君にささやく
清き泉は 君にささやく


いざ 旅ゆかん 歌の翼で
パルムの木陰で 君と微睡み
甘き夢へ 夢へ

   

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2005.05.25

臓器とともに

歌は(と、また歌の話題だが)、もちろん声帯だけで歌うのではない。
声帯の振動だけで良い声が出せて、良い歌が歌えるというものではない。
大脳による学習と技術の習得もさることながら、呼吸と共鳴が重要である。
呼吸は肺という臓器で行われる。共鳴は、鼻腔だけではなく全身のありとあらゆる部位と機関で行われることが望ましい。もちろん、臓器も共鳴する。声楽は総合身体芸術である。
さらに、心臓の鼓動を平静に保ち、極度の緊張を和らげ、人前でもあがらないように歌うことも必要である。

さて、練習も万全で、声楽家の指導も受け、譜読みも完璧、歴史背景等も勉強済み、自己マインドコントロールもできていて自信を持って舞台に上がれる・・・といった場合でも、舞台で失敗するいことがある。大脳でのコントロールが十分で、自信を持って歌っているつもりでも、うまくいかないことがある。それはたぶん、脳内の大脳以外の機関で制御される事柄によるものである。
例えば、リハーサルでは平気だったのに本番では息が浅くなって、心臓がドキドキして、足までクラクラしてくるし、もうダメ。あああ、やっぱり失敗だった。

そんなとき、私は臓器の存在を認識する。特に心臓。そして肺臓。
これらを制御するのは大脳ではない。「脳幹」と呼ばれる部分のようだ。
大脳をコントロールすることはできるが、脳幹までは無理。大人だから、大脳でできることは努力してみる。でも、脳幹は? 無意識のうちに脳幹が心臓や肺をどうするかは予測できない。

臓器の存在を意識するなんて、私ももう若くないということだろうか?


*ブログ向き小文

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機械人形のアリア

歌劇『ホフマン物語』より「森の小鳥はあこがれを歌う」を歌いながら

無論、音楽は、テクニックだけではいけない。技術を鍛錬するのは良いが、それだけで人を感動させることはできない。殊に歌は。
しかし、早熟な音楽家の場合、ある時期において技術が精神性を上まわることがあるのは仕方がないことだ。と、何かの本に書いてあった。

私はアマチュアでしかも晩成型であるが、ハイパーアクート(超高音域)のコロラトゥーラ・ソプラノである。
技術だけではいけないことはわかっているが、技術を披露したいという願望が常にある。グルベローバやデッセーがやっていることは取り敢えずやってみる。必然性を超えない程度に、カデンツァを複雑にしてみたいし、高音も聴かせたい。全曲を歌い通せるようにバランスを考えながら、色々挑戦してみる。コロラトゥーラなのだから、アクロバティックな超絶技巧を極めたい。
でも、だめだめ。それだけじゃだめ。アリアは生身の人間の心の歌なのだから、高音とテクニックだけで聴かせられるものではない。そんなことはわかっている。

ところが、幸いなことに、1曲だけ例外がある。高音とテクニックだけで聴かせられる歌がある。
その曲は、オッフェンバック作曲 歌劇『ホフマン物語』よりオランピアのアリア「森の小鳥はあこがれを歌う」。 オランピアは人間ではない。マッドサイエンティストが発明した機械人形。19世紀の、人間を疎外した残酷で非情な機械の象徴。生身の女の情念を歌う必要はない。
求められるのは、械的正確さのあるテクニック、ホフマンが恋してしまうほどの可愛らしさ、そして人形振りの演技力である。人形を演ずるのは、生身の女を自然に演ずるほどには難しくない(私にとって)。

まず、一番は楽譜通りに歌う。それだけでも十分にコロラトゥーラのテクニックを披露することができる。ネジが切れて停止するところで、コミカルな「振り」をして、笑いをとることもできる。終わり近くにハイEsも用意されている。
二番は、歌い手の技量で可能な限り、音楽的にうるさくならない程度に、超絶技巧満載の複雑なヴァリエーションを展開するといいだろう。
音程はすべて正確でなければならないし、テクニックも完璧でなければならない。難しいアジリタのフレーズも機表情変えずにこなさなければならない。

しかし、最高音がハイEs(五線の上のミ♭)では、非現実性において不充分である(と、私は思う)。ハイEsなんて、大して高い音ではない。生身の女の歌にも音楽的な盛り上がりのために必要な音域で、多くのソプラノが持っている音である。機械人形のアリアを完璧にするには、ハイG(五線の上のソ)が必要である。オッフェンバックもこのことには気づいていたかも知れないが、楽譜に書いてしまうと、上演機会が減ってしまう。そこまでの音域を持っているソプラノは稀有だから。私が知っている限り、最高音ハイGでこの歌を歌った歌手は、ナタリー・デッセー一人である。

私、ハイG、いけるわよ。また歌える日が来たら、機械人形オランピアのアリア、歌うから、聴きにきてね。ハイGを持っているうちに、歌えるようにしなくっちゃね。


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2005.05.23

「美しき青きドナウ」のあとに

たかが歌、されど歌 (2)

さて、私自身の歌のことを振り返ってみる。
私は歌が上手い。と、どういうわけか、確信している。たぶん今も。

独りで歌うのが好き。目立つのが好き。コスプレも好き。
他人と合わせるのは苦手。自分のきれいな声が他人の声に埋もれるのはイヤ。
だからアンサンブルや合唱よりも独唱ばかりやってきた。
関西ではバンドのヴォーカルや、関東に来てからは転向して、ソプラノ独唱。

合唱がきっかけで歌を始めた人は音程がいいし、初見でハモれる人もいる。でも、私はダメ。やったことないし。
中学生のとき校内合唱大会でクラス優勝したこともあるけど、あのとき私は指揮者だった。
兎も角、歌と言えば、ソロ。それ以外の経験は中学までの音楽の授業だけ。

と、思っていた。
しかし、記憶を辿ってみると、それが思いちがいであることがわかった。
あれは高校三年生のとき、最後の一学期間だけ、必修クラブで合唱クラブに所属していたことがあった。部活の方は演劇部で、必修クラブも演劇クラブに入ることが推奨されていたが、そのときだけ部員を裏切って合唱クラブに入ってしまった。音楽が好きなのに美術を選択してしまって、音楽の授業が受けられなかったので、クラブの時だけでも音楽室で過ごしたいというのが理由だった。

合唱クラブで合唱部の人達と、「美しき青きドナウ」とか「モルダウ」といった定番の合唱曲を一緒に歌った。県下一の進学校だったため、高三の後半はお勉強一色の日々だったので、必修クラブの時間が待ち遠しくてたまらなかった。合唱部員の中に一人だけの部外者として参加するのが面白くもあった。合唱部員の女の子達は個性派揃いの演劇部員よりも、どこかおっとりした優しい雰囲気を持っていて、彼女達と歌っているとほのぼのと癒される気分になった。

その中に千夏ちゃんもいた。千夏ちゃんはピアニストを目指すお嬢様で、皆がお勉強一色の日々を過ごす中、一人だけピアノの練習に励んでいた。自習時間も、音楽室が開いていたらピアノを弾くことが許されていたし、体育の球技も免除されていた。千夏ちゃんは私のような変な子がお気に入りだったし、私は芸術家に憧れていたので、すぐに仲良くなった。

あるとき、「美しき青きドナウ」を歌い終えて、千夏ちゃんが言った。
「阿璃子ちゃん、歌習ってるの? 声、綺麗。すごく上手」
音大を目指す彼女、既にショパンも得意な才能あるピアニストである彼女にそう言われたものだから、すっかりのぼせ上がってしまった。
たぶん、このとき刷り込まれてしまったのだ。私は歌が上手い。と。

千夏ちゃんは一浪して音大に入り、卒業後は郷里でピアノの先生をしていた。私は郷里を離れたままだったが、帰省の度に会いに行った。私が声楽を習い始めた頃、彼女も習っていたので話が合った。
ところが、ある時から会ってくれなくなった。ランメルムーアのルチアと同じ理由(婚約破棄)で、精神を病んでしまったのだ。今は鬱が悪化して入院していると聞く。
彼女が健康を取り戻すことができるのなら、こんな声なんて神様に捧げるのに。

いや、そんな非現実的なことを言うのはもうやめよう。それより、大事なことを思い出した。
彼女がまだ元気なとき、私達は約束した。
「いつか一緒にコンサートやろうね。貴女がピアノで、私が歌で」
そう、確かに約束した。


*自意識過剰な回想

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2005.05.21

もう歌わない

たかが歌、されど歌 (1)

私はもう歌わない。
「当分歌わない」であることを願う。
兎も角もう歌わないと決めた。夢を叶えるまでは。
私はもう二兎は追わない。
作家になりたい。作家になれるのだったら、こんな声なんて神様に捧げる。悪魔様に捧げてもいい。

願いを叶えるまではお酒を断つとか、甘いものを断つとか、映画を観ないとか、そういった類の願かけである。
何故「歌」なのか? 
仕事を断てば時間はできる。しかし、それは不可能だし、専門分野で収入を得ることで辛うじて保っているセルフエスティームが危うくなる。
夢を叶えるまでという期間限定で私が何かを断つとすれば、やはり「歌」なのである。
歌いたい。歌わなければ歌えなくなる。せっかく今まで作り上げてきた声を失うかも知れない。発声法を体が忘れ、獲得した音域も失う。早く復帰しなければ、取り返しのつかないことになる。

だからこそ、夢の実現に向けて、実質的に動かなければならない。書き急げ! 時間がない! それだけではなく、書いたものが実を結ぶように、行動を起こすのだ。適切な方法で、早く! さもなければ本当に歌えなくなる。
世の中そんなに甘くない。何かを断ったからと言って、願いが叶うわけではない。肝心なのは努力。いや、才能や運命によって既に勝負は決まっているのかも知れない。
でも、ここで本気になるために、敢えて私は歌を断つ。

というわけで、断腸の思いで歌を断つ。たかが歌、されど歌。いや、たかが歌。と敢えて振り切る。
2005年5月14日に歌った「夜の女王のアリア」を最後に、公式の場で歌うことは自粛する。
私はもう歌わない。夢を叶えるまでは。永遠となるか、二~三ケ月のことなのかはわからない。運と努力と作戦次第だ。才能は? 無いと言ってしまったら何も始まらないので、有ると仮定しておく(自惚れておく)。いや、私が天分を発揮するのは、音楽の方ではなくて、文学の方なのだ。

私はもう歌わない。
本気で決意してここに宣言したのを機に、私自身の「歌」について、総括してみたいと思う。私はあまり自分自身の身の上を語ったり、日常雑記を公開することに興味がないのだが、かくも長い年月、不毛かも知れないが真摯に続けてきた私自身の「歌」について、思いを綴ってみたいと思う。
*自慢っぽい口調になったり、過去の見苦しい写真を載せたりすることもあるかも知れませんが、ご容赦を。

*自意識過剰な回想

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2005.05.18

音楽に憧れる

ムソルグスキー作曲 組曲「展覧会の絵」を聴きながら

 「全ての芸術は音楽の状態に憧れる」
 と、言ったのは、19世紀末イギリスの評論家ウォルター・ペイターである。
文学も、美術も、芸術たるためには、音楽性が必要だ。
 と、私は思う(根拠を論説することはできるが、ここでは詳述しない)。
 しかし、音楽は? 音楽が芸術たるために、絵画的である必要はないし、文学的である必要もない。標題音楽だけが音楽ではない。音楽とは本来、もっと抽象的に昇華されたものである。

 音楽は他の芸術を圧倒的に凌駕する。
 「音楽」と題された絵画もあるし、文学の中で音楽が描かれることもある。しかし、文学や美術が音楽を凌駕するのは不可能である(私論/根拠の論説は可能だが、ここでは割愛)。
 音楽において、絵画を題材とすることもあるし、文学的ストーリー性を持つものもある。しかし、それらにおいても際立ってくるのは音楽そのものである。

 例えは、ムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」。
 ここにおいて描かれているのは展覧会場の空間、そして掛けられた絵画の中の情景である。この曲を聴いて、具象的に情景を絵画的に思い浮かべることができるが、それ以上のものを音楽が与えてくれる。恐らく、実際にその絵を観て抱く感動を超えたものを、音楽は与えてくれる。
 「展覧会の絵」は、芸術としての音楽の圧倒的な優位性を証明する曲である。

 と、先日自分も出演した演奏会(「あなたの音楽会!」2005/5/14於:サンハート音楽ホール)でKさんの弾く「展覧会の絵」を聴いて、思った。こんなことを思いついたのは、Kさんのピアノが迫力あって素晴らしかったからに違いない。Kさん、ありがとう。


*ブログ向小文/エッセイ

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2005.05.14

晩年のモーツァルト

2005.5.14 コンサートのシナリオ

「アヴェ・ヴェルム」を歌う。

MC:

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト作曲「アヴェ・ヴェルム」でした。

モーツァルトは、35歳という短い生涯の間に、626以上の曲を遺しています。その中には、オペラや交響曲といった長くて壮大な組曲も数多く含まれていて、しかも、全てが名曲という、単に仕事の速い人というだけではなく、大天才と呼ぶのにふさわしい音楽家でした。
またモーツァルトは、短い年月の間にヨーロッパ各地を旅して、王侯貴族から庶民まで様々な人と交流し、濃い人生を猛スピードで駆け抜けた人でした。

今日は、モーツァルト晩年の曲から、2曲を選んでみました。
晩年、健康状態は最悪だったはずですが、多くの素晴らしい曲を遺してくれたモーツァルトに感謝します。

先ほど歌った「アヴェ・ヴェルム」は、モーツァルトがザルツブルグの大司教付き音楽家の職を辞めた後、完成させることができたたった一つの宗教曲です。短くてシンプルな曲ですが、モーツァルトの音楽の一つの到達点であると言われています(私なんかが歌っちゃってごめんなさい)。モーツァルトは遺作となった「レクイエム」を完成させることはできなかったのですが、その前にこの曲を完成させることができてよかったと思います。

次に歌うのは、まったく違ったタイプの曲で、ドイツ語のオペラ「魔笛」第二幕にある曲です。「魔笛」はモーツァルトのお気に入りの作品で、死の床にあったときにもちょうど上演されていました。モーツァルトは毎晩大きな時計を見ながら「そろそろ夜の女王の出番だ」とか言って舞台を偲んでいたということです。それでは、夜の女王のアリア、お聴きください。

夜の女王のアリアを歌う。
お辞儀をして退場。

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レッスンノート 2005.5.11

モーツァルト作曲「アヴェ・ヴェルム」

声楽における音のつくり方、息の送り方、方向には、弦楽器のボーイングに通ずるものがあるのかも知れない。と、師匠に言われたわけではないが、この日のレッスンでそう思った。

上昇のときは特に息を「吸う」。そして、前に回して遠くへ響かせる。

特に合唱曲の場合(独唱ヴァージョンで歌うのであっても)、フレーズの最後の音を短くして休符を設けてもよい(例えば、四分音符→八分音符+八分休符)から、次のフレーズの頭を揃える。
*ということは、伴奏者にはブレスで待ってもらうのではなく、そのまま楽譜通りに弾いてもらった方がいい?

最初に出した音のポジションを保てるように。子音によって崩されないこと。

最後の"mortis"、G→Dに下降するところで前に回す。
リタルダンドは大げさでなくてもよい。楽譜では最後のEからだが、次のDからでよい。最後のFは四分音符→八分音符+八分休符にしてもよい。

低い音も響くようになってきた。良い傾向である(師匠談)。

*自分の覚書として書き残しておくだけです。声は一人一人ユニークなもので、これは私のこの日の声のためのレッスンなので、決して参考にしないでください。


モーツァルト作曲 歌劇『魔笛』より「復讐の心は地獄のように」

この曲はハイFさえ出ればいい、自分的には、後半の三連符が一息でできればいいと、とりあえずそれだけをこなせるように突っ走ってしまう傾向にあった。この日初めて、一つ一つの音と言葉が美しく響く歌い方を指導されて、とても嬉しかった。

フレーズの最後の母音を大切に。nにも要注意。流れを止めないように。

auf ewigのeにアクセント。

問題の三連符、スタッカートに聞こえるが、レガートで。息の流れを三角形に感じる歌い方で。
*一息で歌えなくてもレガートで美しく響かせるようにしてみようと思う。

三連符の後のFは「吸う」そして回して前へ。そのままのポジションで次のフレーズへ。その方が音程を保てる。
*実はこの部分、音程が怪しいような気がしている。

もっと色々と指摘されたような気がするけど、本番は既に本日なので、こんなこと書いてるヒマあったら早寝しなくっちゃ。

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2005.05.13

予定された至福の瞬間

~約8小節の休符の後に~

ヘンデル作曲『メサイア』より「ハレルヤ!」を聴きながら


至福の瞬間。それは突然に訪れる。とは限らない。
突然に訪れた方が嬉しい。というわけでもない。
予定された至福の瞬間。というものもある。
それが格別に喜ばしいこともある。

例えば、ヘンデル作曲「メサイア」のハレルヤコーラス。
長大なオラトリオの第二部の終曲。「ハレルヤ!」の順番が近づいてくると、心踊る気分になり、まだかまだかと待ち受けている自分に気づく。待っていれば必ず順番通りに「ハレルヤ!」の至福の時間は訪れる。

至福の瞬間は、「ハレルヤ!」一曲の中にも予定されている。第49小節。初めてこの曲を聴く人も、その瞬間を予感することができる。

and He shall reign forever and ever.

第41小節目から、このフレーズがバス、テナー、アルト、ソプラノの順に、上昇する音形で歌い継がれる。低音が先であるから、ソプラノパートの沈黙は長い。長く感じられる。まず、バス、テナー、アルトが厚みを加えながら"and He shall reign...."と入っていく。来たるべき高音のクライマックスを予感させる曲作りになっている。そして、この間、約8小節の沈黙の後、ソプラノの"and He shall reign...."が入る。ここの2点A音の響きがたまらない。待たされた期待を裏切らない爽快な響き。

この至福の瞬間は、楽譜に明記されているので、「ハレルヤ!」第49小節目に必ず訪れる。
至福の瞬間が必ず訪れると予定されている。待って入れば必ず訪れる。それもこの上もない至福の瞬間が。音楽って素晴らしい!

*ブログ向き小文/エッセイ

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2005.04.22

純粋なる響きのなかに

グロリア少年合唱団 第45回定期演奏会 レヴュー
2005.4.8. 鎌倉生涯学習センター

420余年前「地の果てからの使者」4人の少年は海を渡った…
「天正少年使節の旅」
―葡萄牙・西班牙そして伊太利亜へ―

 グロリア少年合唱団は、1959年に創立された、日本で最も長い歴史を持つ少年合唱団である。鎌倉カトリック雪ノ下教会を本拠地とし、ヨーロッパの伝統的スタイルによる本格的な宗教曲に取り組みつつ、定期演奏会や特別演奏会では、世界の児童合唱曲や音楽劇、オペラも取り上げ、豊かなレパートリーを確立している。

 定期演奏会も今年で45回目を数える。45年間連綿と、声と音楽が受け継がれてきた伝統ある少年合唱団ならではの品格を感じさせる舞台であった。
 今回のテーマは「天正少年使節の旅」。第一部では、天正少年使節が旅したイタリア、スペイン、ポルトガルの歌が特集され、第二部では、天正少年使節を題材としたオペラ『忘れられた少年』第一幕から13曲が歌われた。OBの合唱団であるグロリア男声合唱団も出演。OBを含む指導者が指揮を務め、控えめながら独唱、二重唱等も披露した。

 ここでグロリア少年合唱団独特のクラス編成について触れておく。「クラス」は、グロリア少年合唱団を語るうえで重要な要素であり、プログラムでも紹介されている。

 ●Cクラス   ちびっ子クラス。幼稚園 年中~年長。
 ●Bクラス   二部合唱にも挑戦。小学校1年生~3年生。 
 ●GMクラス 混声四部合唱に取り組む。
          小学校4年生から変声前までがGクラス。
          変声後から高校3年生までがMクラス。

 GMクラスは、メサイア演奏会や聖堂演奏会等で、本格的な宗教曲に取り組み、高い評価を受けている。なお、卒団後はグロリア男声合唱団に入団し、生涯に渡って音楽活動を続けていくことも可能である。
 私が理解している限りにおいて、グロリア少年合唱団では、各クラスの独自性が重視された音楽教育が徹底されている。Cクラス、Bクラス、GMクラスは、練習も発表も別個に行い、共に歌うことはあまりないようだ。
 今回の定期演奏会でも、このスタイルが徹底されており、最後の全体合唱を除いて、各クラスが独自のプログラムを演奏した。このやり方は正しい。少年合唱団のあり方として極めて正しい。年代も声質も違う各クラスがそれぞれ独立して活動し、演奏することに意義がある。全曲を聞き終えた後、私は感動とともにこの「正しさ」を実感したのだった。

 さて、前置きが長くなったが、以下、いかに正しいかを考察しながら、この演奏会のレヴューを試みたいと思う。

 第一部では、まず、Bクラス、Cクラスが児童合唱に編曲されたポルトガル、スペイン、イタリア各国の歌を歌った。初めて聴く曲も多かったが、幼い少年達が完全暗譜で真剣に、そして楽しそうに歌っている姿が微笑ましく、どの曲も親しみを持って聴くことができた。

 幼稚園児さんのCクラスはどこまでも元気で可愛らしい。十人くらいの少ない人数で、(幼児だからという贔屓目はなしで)十分に観客が楽しめる歌を歌っていたのだから、一人一人が十分な声量を持っている(あるいは効果的な発声法を体得している)と思ってよいだろう。
 日本ではマイナーな曲が多いながら、選曲も良かった。彼らの魅力が生きる、まさにこの年頃の子供の声で聴きたい曲が選ばれていた。全曲が日本語で歌われたが、わかりやすく愛らしい訳詞を楽しむことができたのは、歌い手の日本語の発音が良いということである。観客が日本語の歌詞の内容を正確に聞き取って味わうことができるように歌うのは案外難しい。それがこのCクラスの幼稚園児さん達には完璧にできている。Bravi!である。
 どの曲も魅力的だったが、特にイタリアの子供の歌「がちょうのおばさん」や「自転車になったカメの歌」といった、動物が出てくるファンタジックな歌が特に良かったように思う。この子達は、子供ならではの想像力で、がちょうさんやカメさんをリアルに思い描きながら歌うことができるのだろう。それで大人のプロ歌手が上手に歌うよりも、生き生きとした歌となって聴き手の心に響いてくるというものだ。

 小学校低学年の児童によるBクラスは、もっと馴染みのある曲を歌った。「禁じられた遊び」等、有名な曲もあったし、名前は知らなかったが何処かで聴いたことのある曲も何曲かあった。ポルトガル語やスペイン語の言語で歌われた曲もあった。Cクラスの童謡とは一線を画する選曲であり、意味深い詩になっている訳詞の日本語の美しさを味わいながら聴くことができた。
 一見、いわゆる出来のいい児童合唱団のようであるが、小学校1年生~3年生のみの編成でこのレベルが達成できているこのは驚くべきことなのかも知れない。二部合唱のハーモニーも美しく、「禁じられた遊び」等、特に短調の曲が良かった。
 1曲目よりも2曲目、2曲目よりも3曲目と、時間を経るにつれて、声が調子に乗っていくのがはっきりとわかり、その場のムードを共有して共感しながら歌う合唱の面白さを感じた。
 当然ながら、最高の調子で歌われた最後の2曲、「白い道」、「海はまねく」が素晴らしかった。この調子のままでもう何曲か聴きたいと思った。
                                    (つづく)


*グロリア少年合唱団の紹介等に関して、以下のホームページを参考にしました。
グロリア少年合唱団
ボーイソプラノの館

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2005.03.24

モーツァルト、ベッリーニ、あれこれ…

 私の声種はソプラノ・レッジェーロである。声域の最も高いソプラノ。
 いわゆる速い細微なアジリタ唱法を得意とする、いわゆるコロラトゥーラ・ソプラノでもある。最近、プッチーニをやってみたが合わないので断念。やはりモーツァルトや、ロマン派のテクニカルなレパートリーに戻ることにした。

 さて、何を歌おうかと、色々やってみて思ったこと。

 ソプラノ・レッジェーロの扱いにおいて、ベッリーニは優しいが、モーツァルトはサディスティックだ。
ベッリーニは「ノルマ」の超絶技巧を要するコロラトゥーラのパッサージの最中に休符を与えている。この休符は音楽的効果もさることながら、ベッリーニその人の優しさに、女性歌手をしびれさせる。

 モーツァルトは、声の生理学を無視した器楽的な音形を押し付けてくる。夜の女王のハイF音4回の後に、ブレスなしが好ましい三連符の連続。極めつけは、「後宮~」のコンスタンツェの「ありとあらゆる拷問が」における八分音符数小節の連続。テンポを走らせ流すこともブレスも望ましくない、規則正しく刻むことが求められる。声の流れや呼吸の都合を無視したフレーズ。ここでプリマドンナは他ならぬモーツァルトの拷問を受けるのである。

 アロイージア・ウェーバーへの屈折した思いによるものなのだろうか? モーツァルトが女性にもてなかった理由はそこにあるのかも知れない。ちなみに、ベッリーニは女性にはもてたらしい。
 アロイージア・ウェーバーは、しかし、モーツァルトの拷問を拷問とも思わず、笑ってクリアするテクニックと歌唱力、そして声を備えていたようである。モーツァルトのオペラの出演履歴を見ると、難役をことごとくこなしている。「テッサーリアの民よ」のハイG音も、彼女なら苦なく出しただろう。

 なんて、書くヒマがあったら、早寝して声を回復させなくては。花粉症でゼッ不調なのに、今週末にはコンサート形式のお勉強会がある。選曲は、「夢遊病の女」と「ノルマ」のカヴァティーナ。しかし、いざ歌ってみると、ベッリーニの優しさにしびれる余裕なんて私にはない。「ノルマ」を歌うのは十年早かったかも知れない。

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2005.02.19

音楽の無限は真実

 「音楽の響きは音響学的にも無限とは言えないのかも知れない」と、私は書いた。そして、色々と思いをめぐらせて、昨日(2/17)の短い文章を半ば陶酔しながら閉じた。
 
 今日、仕事を終えて設計事務所のアトリエを出る間際に、ふと思いついてバリトン建築士に聞いてみた。この人物は日本音響学会の会員だったこともあり、コンサートホールを設計したこともある。関係ないがついでに言えば、私と婚姻関係にあるらしい。

「残響時間というのは、公式で求められるのよね?」
「うん」
 何の脈絡もなくこのような話題に飛ぶのはよくあることなので、もう慣れているはずだ。
「それなら、音楽が無限だということは、理論的には真実じゃないのよね?」
「え?」
「だから、実は本質的には無限だと私は思うけど、理論的、物理的には……」
「はあ??」
「もういいっ! こんな話してもわかんないわよね」
 そう言えば、彼とこのような話題が成立したことがあまりないのを思い出した。もうやめよう。話しても時間の無駄。

 しかし、彼はぼそりと言ったのだった。
「吸音されなければ無限だよ」
「えっ?」
「吸音がなければ無限」
「吸音って?」
「運動エネルギーが熱エネルギーに変換されること」
「え? じゃ、音響学的には、理論的にも音楽は無限なのね」
「そうだよ」
 それ以上のロマンティックなことを語る語彙を彼は持ち合わせていないのだが、その定理を教えてくれただけで私には十分だった。

 知らなかった。音楽が無限であるということは、幻想でも神話でもパラドックスでもなく、科学的な真実なのだ。
 そして、それを一度でも疑った私は、何て浅はかなのだろう。
 私の歌が彼の歌にかなわないのは、声量や才能の違いもさることながら、音楽の無限性が真実であることを知っているか否かという差によるものなのかも知れない。

 アトリエ事務所の書棚にある音響学のテキストの関連箇所を一度熟度してみたいと思う。


  

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2005.02.17

音楽の響きは無限

 「音楽の無限に広がる響きの中に……」と、私は書いた。しかし、音楽の響きは音響学的にも無限とは言えないのかも知れない。残響時間が計測可能で、計算式によって予測可能であるなら、「無限」の神話は崩壊する。実際、最も美しく効果的な響きを聴くことができるのは、素材と構造を吟味して設計されたコンサートホールの有限の空間においてであろう。

 否 、音楽の響きはやはり無限である。音楽の感動は、残響が終わってコンサートホールや聖堂を出た後も、脳裏に胸中に温存され、その響きは彼の人生において共鳴し続けるのである。そして、ときに響きは彼に関わる人や事象に伝播し、それこそ無限に広がってゆく 。

 全ての音楽においてそれが真であるとは限らない。「感動」がなければ響きはやはり有限である。
 私は幸いにも、魂をゆさぶる音楽が存在することを知っている。私の中には幾多の美しい音楽が永久保存されている。その音楽が質的、時間的、空間的に永遠の広がりを持ち得るのだとしたら、その響きを穢さぬように、真摯に美しく生きてゆかなければと思う。
    

     

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2005.02.09

夢遊病の女

 そんなこともあって(一つ前の記事↓)、また歌いたくなってきた。

 私の歌なんて何の値打ちもないし、時間とお金の無駄だからやめてしまうのが最良の選択だということはわかっていた。

 だいたい、私は身体を使うことが苦手で、何年かかっても正しい発声法も呼吸法も習得することができない。天は二物を与えずといいますからね、オホホホホと言ってみてもむなしいだけ。女の深い情念を表現した歌が苦手で、アリアのレパートリーは、機械人形、お小姓、カストラートの男役といった女っ気のないものばかり。

 そもそも、書き急ぐ私にとって、明らかに時間の無駄。しかも、書き急ぐ私はそのために常に睡眠不足だから、良いコンディションを保てるはずもない。

 しかし、あまり脈絡ないが、そのことをきっかけに、また歌いたい気分になってきた。


 さて、何を歌うか?

 いっそ女気のない路線でカストラートものや宗教曲でいく?
 コロラトゥーラの超絶技巧を極めてみる?
 やりかけていたプッチーニで女っぽいアリアをがんばってみる?
 モーツァルト? 
 ロマン派(特にベッリーニ)?


 真夜中にピアノを片手で弾き、一通りやってみた(近所迷惑)。夜の女王のアリアの音域も健在。下の方も出しやすくなってきた。私も声変わり? 

 で、結局、選んだ曲はベッリーニのオペラ『夢遊病の女』の中のアリア。このオペラはハッピーエンドのメロドラマで、夢遊病に罹っている純真な娘アミーナが不貞疑惑で婚約解除されるが、不可解な行動が病気の発作のためだったということが周囲に理解され、婚約者の愛を取り戻し幸せになるというストーリー。

 歌いたいのは、大どんでん返しで幸福になる直前の、悲しみのどん底にいるときの歌。コンサート等ではこの悲しみのアリアと喜びのロンドが続けて歌われることが多いが、私はロンドは歌わない。最高音ハイEsや華麗なアジリタな技巧を要する曲なのでロンドの方が私には向いているのだが、この健康的な快活さは、まるで運動会の行進曲のようで、トラウマが甦るからキライだ。

 悲しみは、音楽としては美しい。心に痛い傷を受け、生きていけないほどの絶望に喘ぎながら、歌う詩は、音楽は、歓喜の絶頂で歌い上げる歌よりも美しいかも知れない。ガラス細工よりも繊細な、透明で純粋な音楽。

 アリアの前のレチタティーヴォから歌うことにする。レチタティーヴォにしては旋律的であり、嘆くアミーナのどこまでも乙女な心の嘆きが歌にされている。

 思えばこのシーン。悪気はないんだけど、自分も他人も気付いていない脳の障害のために、何か他人にメーワクかけてるみたいだけど、まだ医学的に治療してないんだから治るはずもなくて、また人にメーワクかけちゃった。こんな自分なんてもうイヤ! 生きていたくない…… という心境なのだろう。ODとかリスカとかしちゃう寸前。そういう状況って共感できる。睡眠障害なら、別のだけど私も持ってるみたいだし、ADHDで悪気もなく顰蹙買い続ける人生。診断されて、自分がわかって、あたしのせいというより、あたしの脳の状態のせいだったのね…。このシーンのアミーナと深刻度は違うかも知れないが、とにかく共感できる。

 というわけで、ベッリーニ作曲オペラ『夢遊病の女』からアミーナのレチタティーヴォとアリア「ああ、信じられない、花がこんなにも早く枯れてしまったなんて…」と歌うことにしました。


 共感できても、文学的解釈をやってみても、それで歌えるというわけでもない。
 レッスンを予約しようと思って師匠に電話してみたら、風邪で寝込んでるから治るまで待ってと言われてしまった。
 せっかく、そんなこともあって、歌おう!という気になったのに……。

   

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2005.02.07

ハレルヤ、ハレルヤ!

 自分のHPのアクセス解析でリファラー(アクセス元?)を調べてみたら「少年合唱団」「ボーイソプラノ」のキーワードを検索して来て下さっている方が少なくないことがわかった。そして、そう言えば私は昔からそういうものが好きだったし、私の小説にもそういうものが頻繁に登場していることを思い出した。ついでに同じ検索リストに並んだURLから、自宅に遠くないところに本格的な少年合唱団が存在することを知った。
 幸いうちにはボーイソプラノが在る。年齢的にも入団可能だ。ようやくこれを説得して見学に行くことになった。

 さて、二月の日曜日、見学に訪れると、既にソプラノ/アルトと、テナー/バリトンの二組に分かれての練習が始まっていた。
 ソプラノ/アルトの練習室に入り、同伴のボーイソプラノを有無を言わさず練習に参加させ、私は一人、後ろの椅子で見学。
 定期演奏会の曲の練習ということだが、少年だけの合唱の純粋な響きにすぐに引き込まれた。まだ不慣れなところもあるが、若い先生の指導のもと、一人一人が真剣に歌っている。

 その中に、ひときわ輝かしい声で歌うボーイソプラノがいた。13~14歳くらいか。小学生より声量もあり、独特の迫力を持っている。
 休憩のとき、その少年が私達に話しかけてきた。初めての場所で緊張している私達に優しい言葉をかけてくれた。言葉づかいも礼儀正しくて、いかにも育ちの良さそうな気品が漂う。

「すてきな声ね。感動しちゃった」
「あ、でも、ぼく、もう声変わりしちゃったんですよ。何とかマグレで出してるけど、もう……」
「ええっ?」
 少年は明るくさりげなく言ったのだが、私はショックだった。そう言えば、話し声は明らかに変声した声だ。つまり、既にカウンターテナーであり、「マグレ」と言うからには特にその発声法の指導を受けたわけではなく、変声前の自分の声の記憶と天性の勘で習得したテクニックで歌っているのだろう。

「そんな……本当なの?」
「はい」
 過度に感傷的になっている私に、少年はさらりと答えた。特にそれで落ち込んでいるという様子はなく、現実を冷静に受け入れているといったさわやかささえ感じられた。

「あの、これ、私の本だけど、何かあげたくなっちゃったから、もらってくれる?」
「あ、ありがとうございます」
「そのペン貸して。サインしたいから名前教えて」
 私は衝動的に贈りたくなったときにその場で渡せるように、いつも著書を持ち歩いている。実際、あまり人に贈ったことはないのだが、この美しい声の少年、ボーイソプラノを既に失ってしまった少年にどうしてもこの本を渡したくなった。

 休憩の後も、見学を続けた。ボーイソプラノ、ボーイアルトの合唱の中で、やはり彼の声が際立って聴こえてくる。声変わり前の、ボーイソプラノとしての彼の最盛期の声を聴くことはできなかった。しかし、この瞬間の声を記憶にとどめておこうと、合唱の中でも際立つ彼の声の響きにじっと耳を傾けた。

 最後に、中高生のテナー、バリトンも交えてのハレルヤ・コーラス(ヘンデル作曲オラトリオ「メサイヤ」より)を聴いた。日本では珍しい少年だけの混声合唱である。12月の聖堂でのメサイヤ演奏会のときにも聴いたが、至近距離でしかも観客は私達二人だけという幸運に歓喜し、身震いするほどの感動を覚えた。大合唱の中で、彼の声が特に際立って聴こえることはない。しかし、重厚で純粋なハーモニーの中で、その輝きを失うことなく確かに息づいていた。団員一人一人の様々な色合いの歌声が互いに共鳴し、荘厳な響きの中で一つの音楽として昇華していく。

 思えば、パート練習のときに彼の声が際立って聴こえたのは、年長でキャリアがある分、曲の飲み込みも早く、不慣れな小学生の後輩達をリードしていたのだろう。後輩達は、彼のこの声を聴きながら共に歌うことで、曲を覚え、声を磨いてゆくのだろう。必ず失われる宿命にあるボーイソプラノであるが、この合唱団では、こうして後に続くものを育て、引き継がれていく。しかも、この合唱団では変声したら退団というわけではなく、テナー、バリトンのパートが待っている。

 ハレルヤ・コーラスの響きの中に、私の感傷もすっきりと昇華されていった。声変わりの時が来て、至高のボーイソプラノが失われても、その輝きは音楽の無限に広がる響きの中に、絶えず前へと進む流れの中に、なおも永遠である。


   

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2005.02.05

歌劇「ドン・カルロス」

DVD ヴェルディ:歌劇「ドン・カルロス」(フランス語・全5幕版) レヴュー

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  アントニオ・パッパーノ(指揮)/パリ管弦楽団、シャトレ座合唱団(演奏)/ リュック・ボンディ(演出)

  ドン・カルロ  ロベルト・アラーニャ
  ポーザ侯爵  トーマス・ハンプトン
  エリザベート  カリタ・マッティラ
  フィリップ王  ホセ・ファン・ダム
  エボリ公女  ヴァルトラウト・マイアー

  1996年3月16日、パリ・シャトレ座にて収録。


 オペラと言えば「濃い」ものであり、ヴェルディのオペラは音楽としても舞台芸術としても濃厚な味のある作品揃いであるが、その中でも『ドン・カルロ』は特に濃厚、かつ深淵。まさに究極のグランド・オペラである。

 ここに登場する人々の人間関係は、それぞれに濃厚である。王子カルロと元婚約者で継母である王妃エリザベートとの禁断の愛もさることながら、カルロと親友ポーザ侯爵との友情は友情を超えている。カルロと王フィリップの父子関係は複雑極まり、彼らに関わる美女エボリのキャラクターがまた興味深い。カルロを愛しながら、王と関係を持ち、また王妃にも敬愛以上の情を抱いている。

 このフランス語版の上演では、こうした濃厚な人間模様が明白に表現されている。元来、ヴェルディの音楽は、彼らの感情が歌で激しく絡み合うようにつくられている。音楽だけでも十分に彼らの感情のドラマを感じることができる。しかし、この舞台においては、過剰なまでにスキンシップ重視の演出がなされ、彼らは実際に抱きあい、フィジカルに絡み合うのである。

 カルロとポーザ侯ロドリーグが友情を歌いあげる場面の抱擁は激しく、友情をはるかに超えた愛で二人が結ばれていることは疑いの余地がない。カルロとエリザベートが再会する場面では、カルロはエリザベートを文字通り押し倒して愛を訴える。エリザベートが追放の身となった伯爵夫人を慰める場面は、さして重要な場面ではないはずだが、二人の女性が泣きながら正面から後ろから何度も何度も抱き締め合う。幼馴染で友情で結ばれていた二人ということだが、節度ある主従の関係を超えているように見える。

 こうしたスキンシップの場面において、若く熱いロドリーグ・ポーザ侯爵を演じるトーマス・ハンプソンが(歌唱もすばらしいが)長身、美形であることが非常に効果的であり、一種倒錯した魅力を味わい、官能を伴う感動を得ることができる。

 フランス語版で上演することがどういう意味を持つのかよくわからないが、こうした演出のためか、以前イタリア語版で観た『ドン・カルロ』に比べ、音楽的というより演劇的な性格が強いように思われた。

 舞台は、オペラ的な絢爛さはない簡素な作りであり、衣装も時代考証にかなっておらず、かなりシンプルである。しかし、黒、赤、白を貴重とする衣装のコーディネートは色彩的に効果十分であり、また衣装一つ一つのデザインが現代的な感覚から見ても洗練されたものだった。特に、第二幕の中庭に集う女達の黒いドレスは、今で言うところのゴス風というか、洗練と毒のある大人の女達のちょっと怪しい魅力にあふれている。

 このオペラは、音楽以外の要素も楽しむことのできる娯楽性の高い作品に仕上がっていると思う。フランス語版の上演ということで、パリの人々にとっては非常に娯楽性の高い上演だったことだろう。『ドン・カルロ』という一見難解でとっつきにくいオペラを娯楽作品として仕上げるのを可能にしたのは、演出の妙というものだろう。音楽があまり印象に残ってないような気もするが、DVDならではの視覚的な愉しみを堪能することのできる1枚である。

   

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2005.01.20

空よ!星よ! 癒しのテノール

ポンキエッリ作曲 歌劇『ラ・ジョコンダ』から(3)
首都オペラ 第12回定期公演「ラ・ジョコンダ」(2003.9.13日)
レビュー

 「エンツォ」を演じた大森誠は、英雄的なテノールである。彼の歌は何度も聴いたことがあるが、その度に力強くも明るく美しい響きを持った声、気品と叙情性をも備えた歌唱力の虜になる。
 しかし、このオペラにおいて、エンツォは英雄的な役柄ではない。本来、英雄的な性格の人物だったのかも知れないが、このオペラで英雄的役割を担うのは女傑ジョコンダである。エンツォは策略により陥れられた気の毒な身の上ではあったが、誠実な恋人ジョコンダを捨て、かつては恋仲で引き裂かれたとは言え、人妻であるラウラと逃亡する。しかも、ジョコンダの命をかけた手引きによって。
 テノールの役柄にはよくあることだが、天真爛漫で優柔不断で、憎めないがあまり頭が良さそうには見えない人物である。貴族である自らの正体を明かして対決する場面もあるが、ジョコンダの凄絶なる自己犠牲に比べたら、間が抜けて見えもする。それでもエンツォには、「空よ!星よ!」等のすばらしい曲が用意されており、音楽的にも重要な位置づけを占めている。このオペラにおけるエンツォの性格は、英雄的な煽り系ではなく、癒し系である。ドラマティックな展開で息つく間もなくジョコンダの悲劇が進行していくこのオペラには、「時の踊り」のバレエという、ほっと癒される場も用意されているが、それだけでは癒しが足りない。ジョコンダは劇中、最も共感できる人物であり、その彼女が「自殺!」の運命に追い込まれてゆくのを観ているのはつらすぎる。音楽的構成において、「カルメン」にミカエラという純なソプラノが清涼剤として必要であるように、「ラ・ジョコンダ」にもエンツォという、どこまでも清清しいテノールが必要なのである。
 大森誠は、本来、もっと英雄的なテノールを歌うのに相応しい歌手であるが、癒し系テノールであるエンツォを好演した。アリア「空よ!星よ!」ではフラヴォーが湧いた。ジョコンダの苦悩を知らぬ浅はかさを感じてしまう筋の展開になっているのだが、それでも観客は純粋に大森=エンツォの歌に感動した。バルナバの陰鬱さを吹き飛ばしてくれる清澄な響きをもった歌唱に、心底癒された。エンツォがかわいそうなジョコンダを残してラウラと去る場面にさえ、憎めないさわやかさがあった。演出の妙というより、大森誠のオペラ歌手としての力量と魅力が成せる技である。

 『ラ・ジョコンダ』は、この上なく不条理な、後味の悪い筋書きの悲劇であるが、私的には、バルナバの謎が解けたこと、そして癒し系テノールを堪能できたこともあって、爽快なカタルシスを得ることができた。この大悲劇の後に訪れる強烈な爽快感こそが、ヴェリズモオペラの本質なのかも知れない。

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2005.01.17

霧と一緒に 恋をした

B00005F6J4.09CD 米良美一 「母の歌~日本歌曲集 」 レビュー
*キングレコード 1996

日本を代表するカウンターテナー、米良美一の初めてのソロCD。「もののけ姫」で脚光を浴びる前のピュアな歌唱を聴くことができます。古き佳き日本歌曲が21曲も集められています。

特に私の感性を刺激したのが中田喜直の「霧と話した」。彼の声で歌われたこの曲の私なりの解釈(妄想とも)を、ここで暴露してしまいましょう。この歌の「わたし」は、女性よりも繊細な心を持つ男性で、「あなた」も男性。その恋の悲しい余韻を歌ったものがこの歌。米良さんのカウンターテナーで聴いたからと言って、こういう解釈になるのは私だけかも知れませんが、この曲はそういう曲だとすっかり刷り込まれてしまいました。

私も歌をやっているのですが、自分でこの曲を歌うときにも、そういう解釈でイメージして歌ってしまいます。と言っても私の声はもっと細いソプラノなので、誰もそういうふうに聴いてはくれないでしょうけど。ピアニストにこの解釈を言ってみたら「え"~」と言われてしまいました(何故?!)。やっぱり私だけなんでしょうね。そんな聴き方をするのは。

*参考までに歌詞を掲載します(全文掲載ですが著作権上問題ないでしょうか?)。

「霧と話した」
鎌田忠良作詞・中田喜直作曲

わたしの頬は ぬれやすい
わたしの頬が さむいとき
あの日あなたが かいたのは
なんの文字だか しらないが
そこはいまでも いたむまま

そこはいまでも いたむまま
霧でぬれた ちいさい頬
そこはすこし つめたいが
ふたりはいつも 霧のなか
霧と一緒に 恋をした

霧と一緒に 恋をした
みえないあなたに だかれてた
だけどそれらが かわいたとき
あなたは あなたなんかじゃない
わたしはやっぱり 泣きました

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2004.12.30

英雄のロマンティシズム

ミシュク ロマンティック・ピアノ2004 ピアノ名曲セレクション
(2004.12 東京オペラシティ コンサートホール) レビュー

ショパンがどんなに甘くたって、ショパンは命がけで作曲したんだ、ぎりぎりのものだったんだ。(中略)安心して生きている人間が、ショパンが甘いなんて軽々しく口にするもんじゃない……    (福永武彦 『草の花』 より)

 ロシアの若手ピアニスト ウラジミール・ミシュクのソロ・コンサート。19世紀ロマン派の曲を集めた、タイトル通り「ロマンティック(ロマン派的)」なプログラムであった。照明の作用だろうが、ミシュクの手は黄金に輝いて見えた。
 冒頭に大好きな小説から一節を引用した。この小説の主人公であるインテリ青年は、ショパンが甘いという聴き方を辛辣に批判している。私自身は、ショパンの音楽の魅力は甘さだと思っていたし、甘ったるい「夜想曲1番」や「幻想即興曲」が好きだった。ショパンを聴くのに甘さに酔いしれることのできない彼は不幸だと思っていた。
 しかし、この日初めて、甘くないショパンを聴いた。ミシュクのピアノは濃厚にロマンティックだが、甘くない。叙情性はあるが、決して甘いだけではない。ショパンの「幻想即興曲」も演奏されたが、いつものように目を閉じて甘い陶酔に耽る聴き方を、ミシュクのピアノは許さなかった。甘美な夢想に沈むのではなく、自分の中に眠っていた熱い血がかきたてられるような感覚。目を開けて前を見て、そして信じる方向に突き進む勇気が湧いてくるような気がした。ミシュクのピアノのロマンティシズムは、甘くない「英雄」のロマンティシズムである。 
 プログラムの最後を飾ったのは、リストの超絶技巧練習曲の「英雄」という表題のついた曲であったが、19世紀に爛熟したロマンティシズムの芸術が追求したテーマは、「英雄」に尽きるのかも知れない。
 「英雄」のロマンティシズムの行き着く果ては死? 破滅? しかし、情熱に駆り立てられて行動する過程は、美しい。それは芸術を創り出す原動力となるし、新しい世界を構築していく若い力ともなりうる。作曲家が曲をつくる行為、ピアニストがピアノを弾く行為は、真に英雄的である。
 ショパンが「命がけで作曲」した「ぎりぎりのもの」である音楽は、やはり甘いだけであるはずがない。甘さがショパンの本質ではないはずだ。
 音楽の秘める力は「癒し」だけではない。英雄のロマンティシズムと呼ぶに相応しいミシュクののピアノのように、眠りかけていた若々しい情熱を呼び覚ましてくれる音楽もある。こんなピアノが聴きたかった。

ランキング低迷中 愛のクリックを…

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2004.12.27

合唱の魅力を知る

グロリア少年合唱団 メサイア演奏会(2004.12.23 カトリック雪の下教会) 
レビュー(3)

 この日の収穫はもう一つある。オペラアリア独唱が趣味の私が「合唱」の魅力に気づいたことだ。聴くのも独唱が中心で、が少女時代に夢中になったウィーン少年合唱団を除いて、合唱そのものに興味を抱いたことはあまりなかった。この日も、少年合唱団の歌に期待しつつ、独唱者の歌にも大いに期待していた。しかし、第一部の途中で独唱よりもむしろ合唱の方を楽しんで聴いている自分に気づき、我ながら意外に思った。私にとって本格的な宗教曲はオペラアリアほど馴染みのある音楽ではないため、ある意味難解であり、長時間聴いていると退屈してしまうこともある(不勉強のせいです)。特に、独唱の場合、変化に富んだ表現力がないと、同じ声で聴き続けるうちに飽きてくることもある(不勉強のせい)。この日の独唱者の歌は素晴らしかったが、私にとっては一曲ずつがちょっと長すぎるように感じてしまった(実際、長い)。
 ところが、合唱の場合、私のような不勉強な者でも、聴いていて飽きない。大人数の歌手の様々な色彩の声で、様々なハーモニーで、変化に富んだ展開で歌われるので、すぐに音楽に引き込まれ、わくわくと楽しみながら聴くことができる。魂が揺さぶられるという感覚。聞き覚えのある英語の単語が明快な響きを持ってリフレインされるのを聴くのは快感である。グロリア少年合唱団+グロリア男声合唱団の場合、小学四年生の少年から大人まで、様々な年代の歌手によるボーイソプラノ、ボーイアルト、テナー、バスの歌声が圧倒的な響きで調和し、その音楽的な純粋さ、荘厳さにおいて、独唱を凌駕するほどである。特に「ハレルヤ」と終曲の合唱は圧巻であった。
 もっとも、このオラトリオ自体、独唱者に役が与えられているわけではなく、合唱と同様に物語を語り歌うわけであり、合唱は独唱のバックコーラスではなく、独唱と合唱が同等の扱いになっている。また、私だけの印象かも知れないが、どうも曲の出来ばえが独唱曲よりも合唱曲の方が良いように思える。しかも、独唱曲は長めで合唱曲は短めの構成になっている。こうしたヘンデルの「メサイア」そのものの特性もあるので、比べるのはフェアではないかも知れないが、とにかく私はこの演奏会で、変声期前の少年の声の美しさを再確認するとともに、合唱の魅力を初めて知った。

グロリア少年合唱団【未公認】サイト
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少年の声の響きと輝き

グロリア少年合唱団 メサイア演奏会(2004.12.23 カトリック雪の下教会) 
レビュー(2)

 グロリア少年合唱団は、鎌倉のカトリック雪の下教会を本拠とする、日本で唯一の少年だけの混声合唱団であり、1959年の創立以来、聖堂演奏会、定期演奏会等、積極的な演奏活動を展開している。カトリシズムを母体に本格的な宗教曲に取り組み、アッシジの聖フランチェスコ教会上部大聖堂やパリのノートルダム寺院等、海外の聖堂演奏会でも成功をおさめている。
 「少年だけの」というところに魅力を感じ、聖堂に響くボーイソプラノに期待しつつ、演奏会に臨んだ。 期待通り、ボーイソプラノは素晴らしく、比較的大規模なカトリック教会の聖堂でキリスト像を背景に響きわたるハーモニーは繊細、というより荘厳でさえあった。私は昔からボーイソプラノが好きで、少女時代にウィーン少年合唱団に夢中になったこともある。大人数の少年合唱団の演奏を生で聴くのはこれが初めてだが、ボーイソプラノの魅力を再確認することができた。しかも強烈に。
 翌日、ふらりと立ち寄ったサレジオ教会で少女だけの合唱を聴く機会があり、変声前の少年の声と少女の声とは、音域は同じであっても、本質的に「違う」ものであると感じた。話し声もそうであるが、少年の声の方が少女の声よりもスピントである。凛と張った響きがある。その輝きが刹那的な輝きであると、私たちは常識的に知っている。その響きと輝きを「少年少女合唱団」で埋もらせてしまうのはもったいない。やはりボーイソプラノ、ボーイアルトを聴くなら「少年合唱団」である。
 グロリア少年合唱団は、変声後の高校三年生までの少年がテナー、バスのパートを受け持ち、音楽的に重要な役割を担っている。 変声したら退団という少年合唱団とは異なり、少年だけの混声合唱を成立させ、あらゆる合唱曲を演奏することが可能である。ここにおいて、ボーイソプラノ、ボーイアルトの響きと輝きはいっそう際立ち、純度の高いハーモニーを満喫することができる。
                                            (つづく)

グロリア少年合唱団【未公認】サイト

*健康上の理由で中断しますが、もう少し続きます。

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2004.12.25

クリスマスにはメサイア

グロリア少年合唱団 メサイア演奏会(2004.12.23 カトリック雪の下教会) 
レビュー

 私は信者ではないが、キリスト教が好き。特にカトリックが好き。カトリックの濃厚な文化が好き。芸術様式が好き。音楽が好き、建築が好き、信者の女性が被るレースのベールが好き。聖書の内容も文章も好き。かなり熱狂的に好き。しかし信仰というより趣味なので、とても申し訳なくてけしからぬ気がして、公言は控えている。言わば隠れカトリック? いや、今ここで公言してしまったのでもう隠れてもいられない。
 そんなわけだから、クリスマスは毎年密かに深い感慨をもってむかえている。もちろん、サンタクロースにプレゼントをもらってご馳走を食べるだけの日だとは思っていない。そんなわけで、クリスマスにはカトリック教会に行きたい。出来ればイヴのミサにも参加したい。その前に、カトリック教会の大聖堂でクリスマスオラトリオを聴きたい。家庭の事情でなかなか冬期の夜間外出はままならないのだが、今年はカトリック教会にオラトリオを聴きに行くことができた。
 12月23日、鎌倉のカトリック雪の下教会で催された、グロリア少年合唱団のメサイア演奏会である。
 
                                        (つづく)

*すみません。本題に入ってないのですが、急用ができたので中断します。

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2004.12.12

母への愛に殉じた女?

ポンキエッリ作曲 歌劇『ラ・ジョコンダ』から(2)
首都オペラ 第12回定期公演「ラ・ジョコンダ」(2003.9.13日) レビュー

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さて(まとまりもなく思いつくまま書き進めているが)、『ラ・ジョコンダ』はこのように後味の悪いオペラである(くどい?)が、実は私的には、観終わって一種爽快なものが得られた。
 このオペラの物語は以前から知っていたが、解説書で「あらすじ」を読む度に、どうしても納得いかず、台本が悪いのではと思ってしまう点があった。それがこの公演を観て、すっきりと謎が解けた(または解けたような気がした)のである。
 ヴェネツィアで暗躍する密偵(スパイ)バルナバは、歌姫ジョコンダに横恋慕し、彼女を我が物にしようと策謀する。スパイであるだけにこのような策を練るのはお手の物であり、エンツォとラウラの不倫の恋を遂げさせるのに成功する。私が理解できなかったのは、何故あそこまでバルナバがジョコンダの母チエカに対して残酷だったかということである。魔女呼ばわりして群集を煽り危険な目にあわせ、結局殺してしまう。策に長けたスパイであれば、気のある女の母には酷い仕打ちをするよりも、取り入った方が得策である。母を虐めたら嫌われるに決まっている。オペラを実際に観るまで、私にはどうしてもこの点が解せなかった。
 それが実際に観ているうちに、謎が解けていき、最終的にはすっきりと納得のいく結論が出た。つまり、ジョコンダは母を愛しすぎていた。あるいはエンツォへの愛よりも母への愛の方が強かったのかも知れない。バルナバの嫉妬と憎悪は、エンツォよりもジョコンダの盲目の母チエカに向けられていた。ジョコンダは盲目の母を介助し、ほとんど離れることなく寄り添っている。バルナバの取り付く島等ない。ジョコンダは自分の不幸を承知でエンツォとラウラの恋を取り持つことになるが、それはラウラが母を救った女であるからに他ならない。「Suicido(自殺)!」のアリアで歌われる嘆きも、あるいは失恋の悲しみよりも、悪人の手に母を捕らえられてしまったという絶望の方が大きいのかも知れない。
 この日の公演の、母に寄り添い慈しむジョコンダ、絶えずチエカに憎悪の目の向けるバルナバの演技から、私は勝手に解釈した。そしてすっきりと納得してしまった。
 自殺したジョコンダのせめてもの救いは、既に殺されている母のもとへ行けることである。

 *あと1回だけ…

ランキング よ、よろしく…

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2004.12.06

Suicido(自殺)!

ポンキエッリ作曲 歌劇『ラ・ジョコンダ』から(2)
首都オペラ 第12回定期公演「ラ・ジョコンダ」(2003.9.13日) レビュー

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 『ラ・ジョコンダ』は、このように後味の悪いやり切れなさが残る悲劇である。
 『トスカ』の結末も女主人公の死で終わる。しかし、トスカの恋は死によって成就し昇華し、サンタンジェロ城の塔から身を投げ、舞台から消え去った最後の場面には一種清清しいものさえ感じられる。
 『ラ・ジョコンダ』の結末には、短刀で自らを刺したジョコンダの死体が転がっており、極悪非道のバルナバが生き残ってバリトンの太い声で無様に喚いている。
 ドニゼッティの『ランメルムーアのルチア』は、ルチアの狂乱のアリアを聴かせるためのオペラであるとの説があるが、『ラ・ジョコンダ』も、ジョコンダの「Suicido(自殺)!」のアリアを聴かせるためのオペラなのかも知れない。すべての筋書きはジョコンダの自殺!に向かって進行し、「Suicido(自殺)!」を歌い終えた後は、彼女が本当に自殺する結末に向かって流れていく。
 ジョコンダの「Suicido(自殺)!」は、狂乱のアリアではない。コロラトゥーラの超絶技巧で狂気を表現するのではなく、フォルティシモではっきりと「Suicido(自殺)!」と歌う。強く、激しくドラマティックである。ジョコンダはランメルムーアのルチアのように弱い女ではない。運命に流されるのではなく、自分の意志で行動し、そして「Suicido(自殺)!」の運命を自らの手で選ぶ。極悪人バルナバが仕掛けた策略によるものではあるが、ジョコンダはエンツォと共に逃げようと思えばできないことはなかった。しかし彼女はラウラが母の命の恩人であると知ると、恋敵でありながら、彼女の幸福のために献身することを選ぶ。ラウラは既に人妻であり、かつて恋人同士だったとは言え、エンツォと結ばれることはカトリックの教義にも反する不倫である。しかし、ジョコンダは自分こそがエンツォに相応しい等とは考えない。自分が「Suicido(自殺)!」の運命に至ると予感しつつ、恩人ラウラのために命をかける。憎いバルナバに身をまかせる約束さえしてしまう。
 このオペラには、いわゆる英雄的な男が登場しない。極悪な悪役は登場するが、エンツォのキャラクターにはそれを打ち破るような強い男性像を与えられてはいない。それだけに侠気のジョコンダの人間的、音楽的な強さが際立ち、「Suicido(自殺)!」がより鮮烈に胸に響くのである。

*もう少し続きます。 

ランキングなんて…

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2004.12.05

聖母マリア様!と彼女は祈った。

ポンキエッリ作曲 歌劇『ラ・ジョコンダ』から
*首都オペラ 第12回定期公演「ラ・ジョコンダ」(2003.9.13日) レビュー

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 聖母マリア様!と彼女は祈った。そして、彼女の祈りは叶えられた。
 聖母マリア様!と彼女も祈った。しかし、彼女の祈りが叶えられることはなかった。

 祈りが叶えられたのは、ラウラ。人妻でありながら、かつての恋人エンツォとの不倫の愛に走り、そして聖母マリア様の慈悲ゆえか、その愛は成就する。
 祈りが叶わなかったのは、ジョコンダ。誠実に純粋にエンツォを愛し、母を愛してきたのに、彼はラウラと共に去り、母は殺される。何も悪いことはしていないのに、聖母マリア様は彼女の祈りを聞き入れなかった。
 こんな不条理な話があるだろうか? 不倫の愛が遂げられて、純粋な娘が無残に捨てられ、自殺!の運命を辿ることになるなんて。神も仏もないとはこのことだ。

 かわいそうなジョコンダ! 私だったら自殺なんかしない。                     
 その短刀で自分を刺すのではなく、バルナバを刺して殺してやりたい。トスカがスカルピアを刺殺したのだから、できないことではない。しかし、同じ歌姫でも何という違いだろうか? トスカはマリオ・カラヴァドッシに愛されていた。しかし、ジョコンダはエンツォに振られてしまった。トスカは横恋慕する男を刺し殺した。ジョコンダは憎い男を前にして自分を刺した。

*オペラネタのついでにもう一つ。昨年のオペラのレビューを今ごろ書くなんて……
 でも書きたいのでご勘弁を。まだ眠くないけど眠るべきなので、続きはまたあらためて。

ランキングなんて… 

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2004.12.01

私の宿命的な美しさは運命を狂わせる(2)

歌劇「マノン・レスコー」@プッチーニ作曲
LIP presents OPERA第5回公演(2004.11.28)レビュー

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 マノンがこのような悲惨な死に至ったのは、大部分はマノン自身のせいであり、身から出た錆、自業自得、因果応報である。原作を読む限り、同情の余地はない。しかし、このオペラでは、正直、マノンに同情してしまった。
 プッチーニの「マノン・レスコー」は、大筋として原作に忠実であるが、オペラ化するにあたって、かなり単純化され、わかりやすい展開になっている。原作のマノンは、複数の男を手玉に取り、賭博等の遊行に耽って浪費を繰り返す、不貞で不実な女である。しかし、単純化された結果、プッチーニのマノンがデ・グリューを裏切るのはただ一度ということになっており、まだ同情の余地があるように思えてくる。

 マスネの「マノン」には、デ・グリューとの倹しい生活の場面もあるが、金持ちの誘惑に負けてその場を去るときのアリア「さようなら、小さなテーブルよ」には、現代の堅気の女としては共感しかねるものがある。しかし、プッチーニ版第二幕では、その反対のシチュエーションで、虚飾の身を嘆きかつての貧しくても愛に満ちた生活を懐かしむアリア「柔らかなレースの中にいても」が歌われ、豪華に着飾っていても憂愁に満ちた表情のマノンに共感してしまう。関係ないが、この歌はまた、かなりエロティックでもある。

 第四幕が感動的なのは、そのような、オペラの構成上の理由もあるが、この公演において、特に第四幕の照明による演出効果が成功したから、そして、ソプラノ島田美香のマノンの歌が素晴らしいから(+楚々として可愛らしいから)というのが一番の理由だろう。実際、このアリアにはドラマティックな要素が求められるが、瀕死の状態なので大きな声を張り上げるわけにはいかない。声量ではなく「響き」でドラマティックに歌うのは、高度な歌唱力と正しい発声法、演技者としての表現力を身につけた歌手でないと不可能だろう。

 さて、「私の宿命的な美しさは運命を狂わせる」というのは、この場面のアリアの歌詞からの抜粋。反省も後悔もあるが、結局全ては自分の美しさのせいだったと、自分の人生を総括する。違うんじゃない? あなたの浮気性と贅沢好みと浅はかさのせいでしょ? と言いたい気がするが、とにかく彼女はこのように考えて死んでゆく。オペラのプリマドンナはやはりこうでなければならないのである。

ランキング?何それ?
LIPpresentsOPERA

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2004.11.29

私の宿命的な美しさは運命を狂わせる

歌劇「マノン・レスコー」@プッチーニ作曲から

MAKOTO12.gif

 久しぶりにオペラを観に行った。
 LIP presents OPERA 主催のプッチーニ作曲/歌劇「マノン・レスコー」。
 第四幕の美しさに心を打たれた。放蕩な美少女マノンのアメリカの荒野で壮絶な死。地を這いつくばるマノンの姿がオーケトラで隠れないように、舞台は上げ底になっている。背景には何もない。荒野の土と沈む陽を思わせる赤茶けた照明のみである。舞台にいるのはマノンとデ・グリューの二人だけ。
 第一幕から第三幕には、建物の外壁や貴族の館の室内、アメリカ行きの波止場の不気味な帆船といった背景が、歴史考証にかなったリアルに筆致で描かれた舞台セットがあり、オペラ!の雰囲気を堪能することができた。そして、陽気な若者たち、娘たち、貴族たち、女囚たちといった群集もいない。マノンはもはや豪奢なドレスに身をつつんではおらず、ぼろをまとっている。
 それでも、この何もない第四幕が、どの場面にも増して感動的だった。マノンも美しく見えた。

                                (急用ができたので続きはあとで)

   

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2004.11.17

つきみの教会 秋の催し のお知らせ

つきみ草サロン2004

 2004年11月18日(木)~20日(土)午前11時~午後3時
 ~漆器、絵画、絵手紙、押し花画などの作品を展示します。
 クリスマスグッズの販売や コーヒー&ケーキのご用意もいたします。

 *遠野阿璃子発案の模型レリーフも展示

 *アウティシア工房製作の薔薇を展示の予定(間に合えば)

天使の調べ2004

 2004年11月21日(日)午後1時開場 午後1時30分開演
 ~声楽とピアノのコンサートです。曲目:アヴェマリア、ショパンの革命など。

 *出演します。最初の方に3曲歌います。本名での出演です。

つきみの教会ホームページ   地図


いつもながら遅すぎる告知になってしまいました。
豊かな気持ちで寛げる素敵な催しです。ぜひいらしてくださいませ。

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2004.11.11

心に残る音楽

 心に残るべくして残っている音楽は、いい。
 嬉しいとき、私の脳裏には、オペラ『ラ・ボエーム』の「ムゼッタのワルツ」の伴奏(なぜか歌なし)が流れる。絶望にうちひしがれているときは、『ジョコンダ』の「自殺!」。それも、今は二期会の若手歌手として活躍中のM.M.嬢の修行時代のレッスンのときの声で。数年前、私のレッスンの順番が彼女の次だったので、たっぷり楽しませてもらった。
 こうした音楽を持っているのは素晴らしいことだと思う。こんな私って素敵!と思う。

 心に残るべくして残っている音楽は、いい。しかし、残って欲しくないのに残っている音楽は?
 そういう音楽が意味もなく、感動もともなわずに再現されることもよくある。単にメロディーが単純だからとか、強制的にリピートして聴かせられたからとか、そういった理由で、残って欲しくないのに残っている音楽も、ある。
 例えば、ニフティーのサポートセンター?のテレホンサポートの、オペレータにつながる前待ち時間に流れていた曲。ポップス風のシンセサイザー?によるポップな感じの曲。曲名は知らない。名曲だとは思わない。t特に好きなわけでもない。しかし、繰り返し聴かされたので、しっかり脳が記憶してしまった。そして、消えない。別にこの曲をBGMにするのに相応しいシチュエーションにいるわけでもないのに、意味もなくリピート再生される。誰か止めて!脳から消して! ただでさえ足りない脳の容量を浪費したくない。
 

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2004.10.27

ヴァイオリンに完敗!

 私は趣味の歌い手(自称インディーズ系オペラ歌手)である。声区は、ソプラノ・レッジェーロ。ソプラノの中でも、最も細く軽く高い声。細い(声だけ)から、「声」で聴かせるのではなくて、音域とテクニックで勝負しなさいと最初の師匠に言われ、言われた通りにしてきた。レパートリーも、ソプラノ・レッジェーロ向きのものに限定し、低~中音域の豊かさが求められる歌曲は歌わないようにしてきた。
 ソプラノ・レッジェーロというからには、もちろん、ハイパーアクート(超高音)はおまかせ。そして、コロラトゥーラである。超絶技巧を要する複雑なカデンツァも何のその。「魔笛」の夜の女王のアリアが十八番。
 という路線で、10年以上やってきた。単純な歌曲を、派手なカデンツァのある変奏曲に自分でアレンジすることもある。ピアノやヴァイオリンの即興変奏を耳コピーして歌ってみることもある。
 ある日、楽譜のコピーのために図書館に行っていたとき、我ながらすばらしいアイデアを思いついた。ヴァイオリン曲を歌でやってみよう。速いパッセージも、この私のテクニックで何とか歌で再現してみようと。
 首尾よく、イタリア古典歌曲「Nel col piu non mi sento」のヴァイオリン変奏曲の楽譜が見つかったので、コピーをとった。すごい音符の数だけど、ピアノで音をとってやってみよう。ソルフェージュ能力はゼロなので、楽譜をみても旋律が頭に浮かぶことはない。
 しかし、帰宅して、すぐにそれは不可能だということを思い知らされた。楽譜が複雑すぎて、速すぎて、ピアノで弾くことさえできないのだ。ヴァイオリニストがこの楽譜をみて、初見で完璧に演奏できるとしたら、何という能力だろう。いや、私にピアノの演奏技術とソルフェージュ能力があったとしても、この変奏曲を歌で再現するのは無理だろう。全曲の楽譜を眺めながら、私はすぐに断念した。
 映画「カストラート」に金管楽器とカストラート歌手であるファリネッリとの対決のシーンがあり、勝ったのは歌だった。しかし、ヴァイオリンと声とでは、最初から勝負にならない。勝負を挑んだりしたら、確実に自滅する。
 というわけで、ヴァイオリニストには戦わずして完敗!
 最近、二人目の師匠から、案外、低音域も悪くないと言われ、また、老い先短いので好きなことをやっておこうという趣向が芽生えたこともあり、レパートリーを広げつつある。以前は敬遠していたプッチーニを演奏会で歌うことも少なくない。
 しかし、私のコロラトゥーラとしての野望も尽きることはない。「Nel col piu non mi sento」のヴァイオリン変奏曲も、耳で聴いて都合のいい音だけをひろって、自分の歌向きにアレンジすれば歌えるのかも知れない。ヴァイオリンの「カルメン幻想曲」を歌でやってみるのはどうだろう? カルメンはメゾ・ソプラノだから、私の声には明らかに合わない。でも、ヴァイオリンの超絶技巧ヴァージョンなら、案外、ソプラノ・レッジェーロ・コロラトゥーラにも合うかもしれない。無謀だと思いつつ、今、CDをネットショップで注文してしまった。
    

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2004.10.19

どんぐりころころ 新ヴァージョン

♪どんぐりころころ♪  (梁田貞作曲)

  1 どんぐりころころ どんぶりこ
    お池にはまって さあ大変
    どじょうが出てきて こんにちは
    ぼっちゃん いっしょに あそびましょ

  2 どんぐりころころ よろこんで
    しばらく一緒に 遊んだが
    やっぱりお山が 恋しいと
    泣いてはどじょうを 困らせた

    (以上、青木存義作詞)

  3 どんぐりころころ ないてたら
    なかよしこりすが とんできて
    おちばにくるんで おんぶして
    いそいでおやまに つれてった

    (作詞者不詳)

  4 どんぐりころころ 冬がきて
    こりすといっしょに くらしたが
    やっぱりおなかが すいたねと
    わらって こりすに食べられた

    (遠野阿璃子作詞)

  5 どんぐりころころ いつの日か
    どじょうもこりすも 土となり
    おかげで お山のしいの木は
    今年もどんぐり みのらせる

    (龍3作詞)


 龍3さん、ありがとう。BBSから勝手に転載させていただきました。
 5番の後は1番に戻って 永遠に輪廻するのですよね?

 
「ほんとに、ぐるぐる ぐるぐる、つづいて いくんだね。」
と、おとこの子は いいました。
「おしまいに なっちゃうものは、なんにも ないんだね。

―シャーロット・ゾロトフ著 まつおかきょうこ訳 『かぜはどこへいくの』 より


ランキング ←お気に召したらクリックを。

  
     

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2004.08.03

パパゲーノとパパゲーナ?

papageno.gif
パ・パ・パの至福 その1 パパゲーノとパパゲーナ

というタイトルで前に書いたのがこれです。
豪華イラストつき。こちらにも載せちゃった。

ネタ切れしているわけではありませんが、久しぶりに読み返してみて
我ながらほぉーーーーっと思ったので、無性に読んで、読んで!と言いたくなって
リンクしちゃいました。 しつこいけど、これです。
読んでね~。

モーツァルトADHD説は有名な話ですが、それ以前に天才だった人のことを
わざわざADHDだった!なんて言うことに意味があるのかいな・・・?
というのが最近の私の考え方なのですが、
天才な人にもADHDな人は少なくないのねと考えるのが好きだったこともあります。
自分のADHDを受容していく段階において、そういう時期も必要だったのだと思います。
これは、まさにそういう時期に書いたものです。

ジンクシュピール「魔笛」の作曲者モーツァルトはADHDだった。
台本作家シカネーダーもADHDだった。
つーことは、「魔笛」はADHD×ADHDが結実した立派なADHD芸術だ! 
ついでに登場人物の鳥男パパゲーノもADHDだ。相手役のパパゲーナもADHDだ。
ADHD×ADHDカップルの至福の世界というのもあり得るんじゃないかな……?

とか、書いてます。ちょっと長いけど、読んでみてくださいね。

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2004.05.28

横浜交流音楽祭 2004.5.29

横浜交流音楽祭

プロ音楽家、アマチュア音楽家、障害のある音楽家の交流がコンセプトのコンサートです。遠野阿璃子は、「アデーデ・アマーデ歌劇団」の一員として、ADHDという障害のある音楽家として出演します。

【日 時】2004年5月29日(土) 14時から
【会 場】横浜ラポール ホール(300席)
     (横浜市港北区鳥山町1752、
      「新横浜」駅下車、新横浜駅から障害者優先の送迎バスあり)
【参加費】無料
【申 込】不要。直接会場にお越しください。

横浜ラポールについては http://www.yokohama-rf.jp/shisetsu/rapport/
をご覧ください。

長くなりますが、チラシ原稿も掲載いたします。

♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪

アデーデ・アマーデ歌劇団 2004.5.29 横浜交流音楽祭にてデビュー!
アデーデ・アマーデ歌劇団は、ADHD(注意欠陥多動性障害)をもつソプラノとその仲間によるユニットです。何年か前に、深井ろんりがADHDを特集したテレビ番組に出演し「オンブラ・マイ・フ」を歌っているシーンが放映され、それを観ていた遠野阿璃子が、いつかこの人と共演してみたいと思ったのが、このユニット結成のきっかけです。今回やっとその夢がかないました。
ADHDって?
ADHDをもつ人は、身の回りの雑多な物や、頭の中に次々と浮かぶアイデアを整理しておくことがとても苦手です。また、行動を起こす前に立ち止まって考えることが苦手で、大きな失言や失敗をしてしまう人もいます。毎日が忘れもの、さがしもの、遅刻、笑えないドジなミスの連続で、ちょっとした不注意から大きな怪我をしてしまうこともあります。
これは決して本人の努力不足や親の躾の悪さのせいではなくて、生まれつき脳の仕様が標準仕様とちょっとちがうことによる不具合であることが最近の研究で明らかになってきています。しかし、精神障害でも知的障害でもないこと、子供だけの障害だと誤解されやすいこと等から、障害であることをなかなか理解してもらえず、単なる怠け者、不誠実な人、だらしない人等と思われてしまうのが現実です。この障害のために、学校で皆と同じようにやっていけなくてつらい思いをしている子供達や、会社や家庭で凄まじい努力をしながら認められなくて苦しんでいる大人達がいることをわかってほしい、できればほんの少しだけでも助けてあげてほしいと願っています。 
ADHDだからこその魅力もある!
ADHDをもっていると、日常生活で困ることがいっぱいなのですが、ADHDだからこその長所というものもあります。色々なタイプの人がいますが、アイデアがぱっとひらめく豊かな感性、嘘が苦手な純粋な人柄、興味のあることに取り組むときに発揮される猛烈な集中力……といったものをもった、なかなか魅力的な人が多いようです。私達はもういい年ですし、(歌でも歌って?)そっちの方をアピールして、明るく生きていこうかなと思っています。

♪ 曲目解説 ♪
モーツァルト作曲 歌劇『フィガロの結婚』より
♪伯爵夫人のアリア 「愛の神様、お救いください」  
夫の愛が去ったことを嘆いた歌。悲しみの中にも大人の女の気品が漂う美しい曲。ドタバタ喜劇をひととき鎮静する清涼剤のような効果もあります。一幕で伯爵の不誠実さをさんざん思い知らされた後に聴くと、可哀想でたまりません。この方、もうほとんど鬱病かも。などと思ってしまいますが、案外そうでもないようです。召使達はみんな彼女の味方だし、美少年ケルビーノは彼女に恋しているのです。スザンナと一緒に、ケルビーノをからかってみたり女装させてみたり……。彼女には彼女なりの楽しみもあります。だからこそ、深い憂愁の中にあっても、美しさと優雅さを保つことができるのかも知れません。
♪伯爵夫人とスザンナの手紙の二重唱 「そよ風に」  伯爵夫妻の愛を復活させるためのプロジェクト遂行中。そのための重要な小道具になる手紙を、伯爵夫人が口述し、スザンナが書き取っていきます。三度の和音が美しい二重唱。仲のよい女友達とお喋りを楽しむひとときが、恋人と過ごす時間以上に楽しく思えることがあります(私だけ?)が、そんな女同士だからこその甘やかな安らぎを堪能させてくれる曲です。
♪バルバリーナのアリエッタ 「さがしても」  さがしても さがしても 見つからないの 見つからないの! どこなの? どこなの? さがしても さがしても ああ! 見つけられない。何もかも この手から にげてゆく 消えてゆく。ああ みんななくした! 思い出は心の中だけ…。遠野阿璃子が無理矢理日本語の歌詞をつけました。私たちの毎日にありがちな場面です。
モーツァルト作曲 歌劇『魔笛』より  ♪夜の女王のアリア(第一幕) 癒し系ならぬ、煽り系アリア。異国の王子タミーノに、囚われの身の娘の救出に向かうよう、超絶技巧で鼓舞します。夜の女王の真意や実体はともかく、元気の出る華やかな曲です。

深井ろんり(ソプラノ) AD/HD(注意欠陥多動性障害)を持つ子供の親の会「東京E-CHAP」代表。講演会等で、軽度発達障害のための支援を促す活動を展開。共著書に『こんなサポートがあれば!』 (エンパワメント研究所刊)。
電子メール: xeriko-i@h9.dion.ne.jp Webサイト: http://home.f04.itscom.net/xnomb/E-CHAP/  
遠野阿離子(ソプラノ) 軽度発達障害をテーマとする文学活動を展開。著書『むちゃなぼくと白いハト』(山洋社刊)。翻訳書『ADHD臨床ワークブック』(R.A.Barkley著、山洋社刊、近刊)。 電子メール: marie-a@nifty.com 
Webサイト: http://members.at.infoseek.co.jp/autisia/     http://hyperion.cocolog-nifty.com/hyperion/
アデーデ・アマーデ歌劇団 団員募集! ソプラノと共演可能な方。軽度発達障害の当事者、またはサポーター。プロジェクト毎に召集し、プロジェクト終了時に解散します。お問合せは遠野まで(上記電子メール)。


*日が迫ってきたので上にあげました。新連載小説『フランチェスコの泉』↓も続けておりますのでどうぞよろしく。

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2004.05.13

『むちゃなぼくと白いハト』 語りと音楽の会で上演

 2004年5月12日水曜日、拙著『むちゃなぼくと白いハト』が、語りと音楽の会 ”シレーネ”part.38において、山本美津恵氏の朗読と巻幡初實氏のギター伴奏により初演された。会場は横浜市の大倉山記念館。
 ”シレーネ”主宰の巻幡氏は、プロのギタリストとしても活躍中。作曲、作詞、歌等、多岐にわたる音楽活動を展開している。今回は、この作品のためにオリジナル曲を作曲。前向きな希望を感じさせてくれる音楽が、言葉のリズムと響きを生かし、物語の各場面をより印象的に聴かせてくれる。
 山本氏の語りは、演技力が素晴らしく、「朗読」の域を越えている。ギター伴奏によるモノオペラのよう。しかし、うたいすぎることなく、抑えるべきところでは程よく抑えたセンスの良さが、作品の品位を高めている。「むちゃなぼく」の声の色、喋り方などを成長に応じて演じ分けることによって、「むちゃ」なところを抱え持ったまま少年から青年へと成長してゆく「ぼく」をダイナミックに演じた。
 圧巻はラストシーンの歌。幾度となくリフレインされたメロディに最終章の詩が巻幡氏によって歌われ、山本氏のハーモニーが加わり、最高に盛りあがった。
 自分の創作した作品が、心から愛してくれる人によって、解釈され、表現されるのを観ることは、モノ書き冥利に尽きるというものだ。私のテクストは、絵に描かれ、好みのデザインで装丁することによって、「本」として再生された。そして今、語られること、歌われることによって、テクストはまた新鮮な魂を得て、ここに再生された。極上の音楽にのせて。

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2004.05.03

私が街を歩くと

♪  私がひとり街を歩くと  みんな立ち止まって私を見るの
   私の美しさに見とれてる 頭のてっぺんからつま先まで!
   みんながあこがれの目で私を見てる 
   私の美しさを内の内まで見てみたいと 
   そんな欲望に囲まれて
   私は幸せ! ほんとに幸せ! 
   
   (プッチーニ作曲 歌劇『ラ・ボエーム』第二幕 「ムゼッタのワルツ」より 拙訳)

 この歌は、プッチーニの有名な『ラ・ボエーム』で、浮気な美女ムゼッタが、パリのカフェで偶然再会した元恋人の画家マルチェッロの心を取り戻そうとして歌うものである。ムゼッタは、若く、自由奔放で、自信に満ちあふれている。
 この曲は音域が低過ぎて私の声に合わないので、人前で歌うことはない。しかし、地中海的な明るさと華やかさのある曲想が好きなので、いいことがあったときに脳裏に再現される曲の一つになっている。
 実は、この歌詞の引用は、以下に続く文章にはあまり関係がない。 ただ、こんなふうに自分の美しさに自惚れながら街を歩くのは、なるほど一人歩きのときに限られるのだろうとふと思った。

 そのときどきの気分次第で、ものの見方が変わってくるように、誰と一緒に歩くかによって、風景の見方が変わってくるような気がする。
 気の合う友とお喋りを楽しみながら歩くとき、恋人と手を握り合って歩くとき、怪しい密会相手(?)と歩くとき、仕事の仲間と歩くとき、団体さんの一員として歩くとき、手錠をかけられて連行されているとき、その時どきに、誰が共にあるかで、同じ景色でも少しずつ、見え方が変わってくる。
 そして、誰とも一緒でないとき、一人で歩くときも然りである。

 2004年5月1日。私は一人だった。夕刻の青山通りを、私は一人で歩いていた。実に、何年ぶりのことだろうか?
 独身時代、会社帰りの寄り道で、都会の真中をわざわざ一人で徘徊してみる癖があった。私にとって東京の街は刺激的で、何時間歩きつづけても飽きることはなかったが、一体私は一人で何をしているのだろうという、空しさと寂しさを常に感じていた。
 さて、久しぶりに私は一人だった。<私がひとり街を歩くと、みんな立ち止まって私を見るの/私の美しさに見とれてる……>などと思ったりはしない。しかし、音楽的、気分的に、この場のBGMには「ムゼッタのワルツ」がふさわしかった。
 私は、ただただ一人であるという状況に感動していた。一番好きな時間に、都会の街角に一人で居ること。それは最近、夢にまで見てあこがれたことだった。一人暮らし時代のように、空しくも、寂しくも感じない。
 ひとり! 一人! 独り!
 何という快楽。何という開放感。私は狂喜した。用事を済ませてすぐに帰宅しなければならない。ほんの束の間の至福の時である。私の精神の健康のために必要なのはまさに、短い時間でも、完璧に一人で在ることだった。そして、偶然ながら、それがついに叶えられた。
 帰りの電車で読む本を買うために、青山ブックセンター本店に寄り道する。地階へ続く長いエスカレータ。天井のない地階の入り口の前のオープンカフェを見下ろしながら、都市が確実に進化しているのを感じる。それはムゼッタとマルチェッロが再会した、パリ19世紀のボヘミアンが集うカフェ・モミュスではなく、2004年の東京の無機的なオフィスビルの地階のカフェだ。
 書店には、中世の時祷書のレプリカのような洋書の豪華本がたったの\8,900で売られていた。重いのでインターネットで買うことにして、代わりに<流行通信>のバックナンバーと三島由紀夫関連の文庫本を買った。しかし、すぐに後悔した。久々の一人歩きの記念に、豪華本を1冊衝動買いしてしまうのも悪くなかったのにと。しかし、レジに後戻りして取り換えてもらうようなことは無粋なことはやめておいた。
 再びカフェを見下ろしながら地上へ昇ると、私にとっては新鮮な街の空気を深呼吸しながら、いつもとは違う青山通りを闊歩した。東京メトロの入り口までのほんの短い道のりを。

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2004.04.20

『むちゃなぼくと白いハト』 上演

遠野阿璃子の著書 『むちゃなぼくと白いハト』が、語りと音楽の会「シレーネ」で上演されます。他にも、素敵な作品の朗読を、ギターや篠笛やチェロの演奏とともにお楽しみいただけます。

  語りと音楽の会 ”シレーネ” part.38

    「むちゃなぼくと白いハト」 遠野阿璃子 作
        <朗読>山本美津恵 <ギター>巻幡初實

    「Love You Forever だいすき」 R・マンチ 作
        <語り・ギター>巻幡初實
    「少年と雉」 野添憲治 作
        <朗読>石戸谷行子 <チェロ>西野みゆき
    「産神さまの運定め」
        <朗読>小松睦子
    
    2004年5月12日(水) PM7:00~
    大倉山記念館 第10集会室 (東横線大倉山駅 右坂登る5分)
    \2,000 要予約

    ご予約の際には、4月末までに次の口座(郵便局)に\2.000を
    お振り込み下さい。  00290-9-40056 ヤマンバ企画


*ついでに、ARCHITECTURAL MAPより大倉山記念館/旧大倉精神文化研究所

 1932年竣工の大倉山記念館は、<プレ・ヘレニズム様式>の建物。
 <世界的に見ても類例は無い>マニアックな様式だそうです。建物も必見の価値あり。
 以前、フランス語を習いに通ったことがありますが、丘の上に建つこの洋館に入る度に
 一瞬、精神が昂揚するような不思議な感覚にとらわれたものです。

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