2007.09.17

立ち読み御免!(4) 『IS』 六花チヨ

Is
『IS ―男でも女でもない性』 
六花 チヨ 講談社

掲載誌:KISS


本当にごめんなさい! 立ち読みばかりして。
特に・・・セブンイレブンさん、ごめんなさい。漫画雑誌置いとくスペースないし、コミック出るまで待てないのです。最近は、ネット&漫画カフェでも読むことにしています。


IS(インターセクシャル/半陰陽)という言わば両性具有で生まれてきた人のお話。ファンタジーではなく、本当に存在するセクシャルマイノリティ「IS」の人の苦悩が切実に描かれています。

主人公星野春もその一人。性自認は男性で、中学までは男子として過ごしてきましたが、高校では女子として入学することを薦められ、違和感を感じながらも女子の制服を着てボーイッシュな女の子として学園生活を送ることになります。ISを理解してもらうように努め、友人にも恵まれ、彼氏もでき、やがて学校中にカミングアウトして男子の制服を着て通うようになったのですが、無理解な人も多く、悩みは尽きません。それでも、一流のケーキ職人になりたいという夢に向かって健気に頑張る春!

春の生い立ちや、受診、ISの人が集うサークルでのシーンで、ISについてはわかりやすく解説してくれるので、全く知らなかった人も、無理なく理解することができます。でも、この漫画のいいところは、啓蒙!漫画ではなくて、さわやかな学園ドラマとして読めること。クラスメイトや幼なじみ、IS仲間も、みんな悩みながら青春して成長していく・・・じわっと涙ぐんでくるエピソードが満載。ISに興味も知識もなかった人も、学園/青春ドラマとして楽しく読むことができます。

心は男性の春は、男性のままでいたいけど、体の女性化が進んで体的には女性化する道を選ばないと健康が危ぶまれる・・・好きになった人は男。両想いになって絆は深まっていくけど、ふれあいたいけど、ふれあえない・・・普通の恋人同士になりえない状況に苦悩・・・という不安定でつらい状況。

さて、これからどうなるか? 彼との恋の行方は? 春の選ぶ道は? 


※ISについて 半陰陽(Wikipedia)

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2007.09.14

立ち読み御免(2) 『プライド』 一条ゆかり

Pride_2

『プライド』 一条ゆかり 集英社
掲載誌:『コーラス』

一条ゆかり好きだし、オペラ好きなので、私が立ち読みしないはずないでしょ? という漫画。
実は、まだ読み始めたばかりで、コミックも買ってません。これから買うので立ち読みお許しくださいませ(今からちゃんと宣伝しますし)。

一条ゆかり先生、劇画化しないで少女漫画~路線キープしてださるのでありがたい!
派手~なタッチがオペラ漫画にピッタリ。

どうかこれを画いたのがきっかけでオペラの世界にのめりこんでしまって漫画は休業・・・なんてことにならないでくださいね。

でも、この漫画を見る限り、その心配はなさそう。一条先生、それほどオペラの世界にのめりこんではない様子。だって、シロウトの私が見ても、それはないんじゃない?というとこがチラホラ。

例えば、史諸ちゃんのレパートリー、広すぎ。オクタヴィアンを目指しながら、『後宮~』のコンスタンツェをコンクールで歌うなんて、あり得ない~。そんなことしたら、ツブします。プロの世界ではぜったいにあり得ない~です。ソプラノ・レッジェーロも、アルトも可能な音域! というのはスゴイんでしょうけど、あり得ない~です。ルディー先生、何教えてるの?って感じ。何を歌うか、何を歌わないかという選択はオペラ歌手がキャリアを築くうえでとても大切なこと。

オペラ歌手の自伝とか読んでたら、絶対にそういうことが書いてあるはず。中丸美智繪の自伝にも出てきますよ。

そんなわけで、絵も雰囲気も人物設定もストーリーも一条ゆかり~的で面白いけど、オペラに関してはもっと勉強して!と言いたい。


でも、いいんです。本当に真剣に研究!自分も習ってみる!ということになれば、歌の魅力に取り付かれて、池田理代子先生のようにオペラ歌手の道を目指すことになっちゃうかも知れないので。あり得ない~なことには目をつぶりますから、このまま面白おかしく続けてくださいませ。私も毎号読んで(立ち読みで?)応援しますね。

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立ち読み御免!(1) 『令嬢テレジア』 

実は・・・私は立ち読み魔なのです。
最寄のセブンイレブンさんでいつも、連載漫画を立ち読みしております。
漫画雑誌って買うとかさばるから、買わないけど
連載漫画って続きが気になるから、ついつい立ち読み・・・・。

すみません!
でも、コミック本が出たらちゃんと買ってますのでお許しを。

お詫びの気持ちをこめて、
お気に入りの漫画をここで紹介しちゃいますね。

今、一番ハマってるのは、

Teress
『欲望の聖女 令嬢テレジア』
森園みるく/藤本ひとみ
Amazon

舞台はフランス革命期。
「テルミドールの聖母」と呼ばれた実在の女性、テレジア・タリアンの生涯。
池田理代子先生が声楽家に転向してしまってから
読み応えのある歴史漫画の新作が途絶えてしまい、
物足りなさを感じていたところにあらわれたのがこの漫画。
登場人物のキャラクターも魅力的で娯楽性もたっぷり。
ついでに性描写も赤裸々で、大人の娯楽漫画として面白さ満点。

フランス革命に至る背景や、貴族の日常生活など、
歴史考証もバッチリ。テレジアをとりまく華やかな環境や
当時の衣装も目を楽しませてくれます。

ということで、毎週立ち読み愛読しております。

連載誌は・・・『女性セブン』。
私ってば、毎週女性週刊誌をセブンイレブンで立ち読みしちゃってるんです。
それほどこの漫画が面白いということで、ご勘弁を。

女性もさることながら、男性キャラが素敵なのもこの漫画の魅力です。
池田理代子的少女漫画がお好きな方は、
ぜひ『女性セブン』で『欲望の聖女 令嬢テレジア』を読みましょう。

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2007.05.26

知里幸恵の『アイヌ神謡集』

Kamui
知里幸恵の名をご存知だろうか?
19歳と3ヶ月で夭折したアイヌの天才少女、そしてアイヌ文学史上最も偉大な作家である。
アイヌの口承文芸ユーカラを、アイヌ自らアイヌ語と日本語で記述したのは、彼女が初めてだった。

アイヌの口承文芸ユーカラの語り手「ユーカラクル」の家系には優秀な頭脳の人が続出すると言われるが、彼女も例外ではなかった。
日本政府の同化政策により、20世紀初頭の当時において既に、アイヌの若者たちはアイヌ語を忘れつつあった。幸恵は学校では成績優秀で日本人よりも上手に日本語を話すが、家では完全にアイヌ語で会話する、日本語/アイヌ語の完璧なバイリンガルであった。アイヌとしては異端のキリスト教を信仰していたこともあり、同年代のアイヌ少女達の中では一風変わった存在であっただろう。

アイヌ神謡集は、彼女が短い生涯でただ一冊遺した作品である。

ユーカラ研究のために自宅まで押しかけてきた言語学者金田一京助の薫陶を受けた幸恵は、ローマ字表記のユーカラに日本語訳をつけてノートに記述していく。優れた語り手である祖母や伯母・金成マツ、母・知里ナミのユーカラを聞いて育ち、敏感な耳で数多くのユーカラを記憶していた幸恵は、泉が涌くように美しいテキストを書きとめていった。日本語の訳詩も非常にわかりやすく、そして美しい。優しく、そしてはかない哀愁を帯びた言葉の響きに心が表れるようである。

  「銀の滴降るふるまわりに,/金の滴降るふるまわりに」
  という歌を静かにうたいながら/この家の左の座へ右の座へ
  美しい音をたてて飛びました.
  私が羽ばたきをすると,私のまわりに
  美しい宝物,神の宝物が美しい音をたてて
  落ち散りました.

  (『アイヌ神謡集』 知里幸恵 岩波文庫)


彼女が師と慕った金田一はしかし、政府の同化政策の賛成論者だった。アイヌの若者たちには、アイヌ語の保存やアイヌの研究は自分にまかせて、君たちは日本語で日本に同化して近代化の道を歩みなさいと言っていたという。従順でまだ若い幸恵は師に反論するようなことはしなかったが、『アイヌ神謡集』には、アイヌ自らアイヌ文化を継承していくことの大切さを伝えてくれる、静かだが強烈なメッセージがこめられているように思える。序文にも彼女自身のアイヌへの愛と失われていくアイヌ文化を惜しむ気持ちがあらわれている。師へのささやかな抵抗のようにも思えるが、金田一は気づいただろうか?

この文庫本には、彼女の作品の他に、金田一の手記も掲載され、短かった彼女の東京での生活の様子を知ることができる。心臓病を患う病弱な身で師の赤ん坊の子守までしていたという健気な少女であった。明るくてお喋り好きな少女であった。
子守までさせなければ、金田一先生がもっと気遣ってくれたら、もう少し長生きできたのではと思うのは私だけかも知れないが、これほどまでの才能がこんなに早く失われてしまったことが痛ましい。珠玉の言葉、至宝のテキストの一つ一つを、ありったけの感謝をこめて受け取りたい。

アイヌ神謡集 知里幸恵
岩波書店 (1978/01)  ISBN-10: 4003208013

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▼アイヌ・ユーカラについては、コチラをどうぞ!(書店にあります)
古代文明ビジュアルファイル16号 「古代へのアプローチ アイヌの叙事詩ユーカラに隠された史実とは?」


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2007.03.07

二つのウェルキンゲトリクス伝

ウェルキンゲトリクス(紀元前82/72~紀元前46年)は、ケルトのアルウェルニー族の王にして、カエサル=ローマ軍との決戦を指揮した将。紀元前52年、ウェルキンゲトリクスは、団結が弱かったケルトの戦士たちを統率し、カエサルに決戦を挑んだ。ウェルキンゲトリクスの呼びかけに応じ、約35万ものケルトの戦士が最終決戦地アレシアの丘に集まり、ケルトに自由のために闘った。天才カエサルの周到な戦略の前に大敗を期したが、ウェルキンゲトリクス一人がカエサルの前にわが身を投げ出し降伏することで、ケルト戦士が皆殺しになるのは避けられ、平定後もガリアにおいてケルト人は尊重され、寛大な統治のもと平和が保たれることとなった。

ウェルキンゲトリクスの生涯には不明なことが多く、当時の文献で詳しく語られているのはカエサルの『ガリア戦記』のみである。彼の名は日本ではあまり知られていないが、フランスでは最も人気のある英雄の一人である。

私の知る限り、日本人作家によるウェルキンゲトリクス伝は2冊ある。

(1) 『ガリア戦記―ローマに挑むケルトの若き狼』 村上恭介著/学研

(2) 『カエサルを撃て』 佐藤堅一/中央公論社

お奨めは、断然、(1)の本。
著者の村上恭介氏がまだ20代のときの作品のようだが、適度に気品があり、コミック的な読みやすさもある文体で書かれている。個人的には、ケルト統一の先駆者で初めてカエサルを破ったことがあるものの、志半ばで挫折した小部族の王アンビオリクスが覆面の軍師として登場するところが面白いと思った。アンビオリクスの敗退後の消息は不明なので、このような設定も十分に可能である。

(2)の本は、申し訳ないのだが、読むに耐えられず、中断してしまった。理由は強姦シーンの執拗さ。また?と思えるほど、そのようなシーンが続出する。ウェルキンゲトリクスの屈折した内面がよく描かれているとは思うが、あまりに強姦シーンの頻度が高くリアルなので、若き英雄ウェルキンゲトリクスに対してフランス人が抱くような美化したイメージを持っている私には耐えられなかった。

どちらか1冊ということであれば、やはりお奨めは(1)の本。ソフトカバーの装丁がライトすぎて、軽ーーい読み物のように思えてしまうが、読み応えもエンターテインメントも十分である。

それより・・・『週刊古代文明ビジュアルファイル』15号に足立夕佳(遠野阿璃子の分離人格)によるヴェルキンゲトリクス伝が掲載されるので、こちらもよろしく!

ウェルキンゲトリクス Wikipedia

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2006.11.10

青い鳥

「旅は終わりました。私たちもここでお別れです」

「でも、青い鳥、つかまえられなかったよ」

「いいのですよ。やるだけのことはやったのですから。
青い鳥なんて、本当はどこにもいないのかも知れません」 (中略)

別れを惜しんで泣く二人に、光の女神 は優しく言いました。

「泣かないで。私がいつもそばにいますから。
太陽も、月も、星も、ランプのあかりも、みんな私です。
愛し合う人たちの上にも、いつも私は輝いていますよ。
さあ、おうちにお帰りなさい」

―『青い鳥』 (メーテルリンク原作、遠野阿璃子再話)より―


「青い鳥なんて、本当はどこにもいないのかも知れません」 と、
光の女神は言った。
ところが、チルチルとミチルが家に帰ると(夢から醒めると)、そこには青い鳥がいた。
光の女神の言うことは間違いだったのか? 意味のない、いい加減な発言だったのだろうか?

いや、光の女神の言うことは全て、正しい。
しあわせの花園で、しあわせたち、よろこびたちに、待望されながら、まだその時ではないと、ベールで顔を隠したまま顔を見せなかった光の女神。
「もののわかる喜び」に「お姉さま」と慕われる光の女神。
彼女の言うことは全て真実である。

そう、青い鳥なんて、本当はどこにもいないのかも知れないのだ。
チルチルとミチルがようやく見つけた青い鳥も、手に入れたと思った途端に
窓から飛び去ってゆく。
青い鳥なんて、本当はどこにもいないのかも知れない。
幸福の青い鳥を探して、旅することに意義がある。
永遠に続く、果てしない旅を続けることに意義がある。


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2006.10.22

彼女は破滅するにまかせておくしか・・・・・・

彼女がしゃべっている間、ゴルトムントは彼女の目を見ていたが、その目は憎しみの燃え立つかげになにかしら輝くものがあって、それが彼を感動させ恥ずかしい思いをかきたて、心の奥深くしみとおってきた。彼はその目のうちに死を読みとったのだ。といっても、それは死すべき運命としての死ではなく、死への欲望であり、いつ死んでもいいという死であり、母なる大地の呼び声に静かに従い、身をゆだねようという態度だった。*

 ヘルマン・ヘッセ 『知と愛』(原題『ナルチスとゴルトムント』)は、中世のドイツを舞台に、「知」の人ナルチスと、「愛」の人ゴルトムントの生きざまを描いた長編小説である。大部分を占めるのは、ナルチスのいる修道院を脱走したゴルトムントの長く苦難に満ちた愛と芸術の日々であり、美しい女達との恋愛のエピソードが数多く描かれている。

 冒頭に引用した一節は、ユダヤ娘レベッカとの短すぎる恋愛の結末である。
 ペスト流行地域の廃墟で出会った美しいユダヤ娘レベッカ。
 ペストが猛威をふるう町を旅してきたゴルトムントは、人々が死の恐怖でいかに愚かしく狂っていくかを目の当たりにしてきた。「ユダヤ人街が残らず焼きはらわれ」、「泣き叫びながら逃げ出すユダヤ人は、武器の力で力ずくで火の中に追い返され」、「いたるところで罪のない人びとがうち殺され、焼き殺され、拷問をうけて」いる光景を、「憤怒と嘔吐をもよおすような思いで」ながめてきた。
 レベッカの父もまた、「役所の命令」で焼き殺され、逃げおおせたものの独りぼっちになった彼女は、絶望のどん底にいた。この極限状況で彼女を見初めたゴルトムントは、灰の中から骨を拾い集め、遺体を埋葬するのを手伝ってやる。泣き疲れて眠った彼女が目覚めると、一緒に旅立とうと口説き始める。「ユダヤ娘とわかれば殺される」し、浮浪者や狼に襲われる危険もある。実際、この状況で彼女が一人で生きてゆけるはずがなかった。
 しかし、レベッカは、きびしく拒絶する。その目を見て、ゴルトムントは、救済が不可能であることを悟る。

 彼は帽子を脱いで王侯の奥方にでもするようにふかぶかと頭を下げて挨拶し、思い心を抱いてそこを去った。彼女は破滅するにまかせておくほかなかった。

 捨て置いたら死ぬとわかっている相手を置いて立ち去るのは、人道上許されることではない。残酷だ。極悪非道だ。ここでのゴルトムントの判断は間違っている。中学生の頃、初めてこの本を読んだときにはそう感じたように記憶しているが、それなりの年月を生きてきた今なら、共感できないこともない。
 芸術家の旅の人生で、様々な女性との恋愛遍歴を重ねてきたゴルトムント、その方面には長けた彼にとって、誠実な愛を完全に拒絶されてしまうこのエピソードは例外的であると言っていい。しかし、精神的にも身体的にも全く触れ合うことのできなかったレベッカは、ある意味、彼にとって最も官能的な愛の対象だったのかも知れない。

……あの高価な花を救う力は、救う魔法はないものか? あるのだ。あの花が彼の内部で生きつづけ、かたちを与えられ、保存されていくこと、それがその魔法なのだ。*


以上、2004.07.15の記事のコピペ。本題に入ってなかったので、以下、本題を展開。

 ところで、ネットでコミュニケーションをしているうちに、「彼女は破滅するにまかせておくほかなかった」というシチュエーションに出くわすことが度々ある。

 例えば、発達障害系サイトのチャットで、親しくなった人達と親しくチャットする。するとそのうち、悩みを打ち明けられるようになり(私は弱みを見せるのはイヤなので決して打ち明けたりしないが)、死にたいとか、自殺するとか言われてしまう。チャットの場で皆で止めようとするが、決意は固いらしい。あるとき、絶望的な捨て台詞を残してチャット落ちし、それから何日経ってもあらわれなかった・・・・・・。こんな場合。

 私の小説のファンだと掲示板に書き込んでくれた人とSNSで再会。互いの日記に書き込みをするようになり、写真で見る限り、私好みの美少年。ところが、ある日、「サヨナラ」と、自殺をほのめかす日記を残し、それきり消えてしまった・・・・・・。こんな場合。

 友情は感じている、でも、所詮は見ず知らずの人、住所も電話番号も知らないから、自殺予告されても警察に通報もできないし、生死を確認することもできない。「彼女は破滅するにまかせておくほかなかった」の境地に入るしかどうしようもない。冷たいようだが、本当にどうしようもない。あとは「内部で生きつづけ、かたちを与えられ、保存」の境地にまで至るのなら、本当に自殺してしまった人にとっては本望なのかも知れないが。

 ネット友達というのは不可解な存在で、文字コミュニケーションならではの深みと、距離感、それゆえの緊張感のなさで、リアル友からも聞かないような深刻な話を聞かされてしまったりする。それでも、所詮は会ったこともない人。自分のリアルな生活や家族とのコミュニケーションを犠牲にしてまで、チャットに付き合うべきではないとも思う。そんな関係はいっそ結ばない方がいいのかも知れないが、ネット友も、一度会えばもうリアル友。できれば一度でもオフ会に参加したり、デートしたりして、実体のある間柄になるべきなのだろう。

 『知と愛』のレベッカとは状況が違うが、このようなことがある度に(実際、よくある)、いつもこの場面を思い出す。

 *『世界の文学37 ヘッセ』 ヘルマン・ヘッセ著 山下肇ら訳 中央公論社

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2005.08.09

恐るべき子供たち ~漫画

 ジャン・コクトーの『恐るべき子供たち』を読んだことはないが、知っている。面白そうだから読んでみたい。という友人が案外多いことに、最近気づいた。
 日本では案外、『恐るべき子供たち』の知名度は高いかも知れない。何故かと言えば、日本には萩尾望都による漫画『恐るべき子どもたち』があるので。コクトーの名作にとっつきやすい漫画で気軽に親しめるのは幸運なことであるとも言える。

 萩尾望都の漫画は、非常に原作に忠実であり、コクトーの文章のリズムがそのまま再現されている。漫画家自身の創作は、テキストにも絵にも一箇所も加えられていない。脚色のない、原作の忠実な漫画化であり、萩尾望都のジャン・コクトーに対する敬愛の念と、文学的センスをうかがい知ることができる。
 萩尾望都はこの作品を描くにあたって、メルヴィルによる映画はあまり参考にしていないように思う。服装や街の風景等、時代考証はしっかりしているが、彼女が独自に調べて描いた世界であろう。登場人物の容貌も映画の俳優達には似ていない。ついでに言えば、コクトーの素描にもそっくりというわけではない。漫画家萩尾望都自身が原作を読んで構築したイメージなのだろう。16歳のエリザベートは、『トーマの心臓』のエーリクや『ポーの一族』のエディスといった、彼女の作品に登場する金髪巻毛の美少年、美少女のキャラクターに似ている。

 この漫画はまた、生々しいまでにリアルである。永遠の「子供」である主人公達は容赦なく老けていく。老けると言っても、エリザベートが16→20歳、二歳年下のポールが14→18歳というだけの加齢なので、この老け具合はリアルというより大袈裟かも知れない。しかし、この老け方こそが終末に向かって突っ走る物語の残酷さを際立ている。ある意味、真実をついた表現であるとも言えるだろう。最終章はほとんど劇画タッチで、少女漫画の域を越えている。文章読解力のない人には、翻訳を読むよりも強烈にコクトーが意図したところの『恐るべき子供たち』の世界が伝わるかも知れない。

 萩尾望都の『恐るべき子どもたち』は、文学性に優れた、非常に質の高い作品である。それでも私は、漫画を読む前に原作を読むことをお奨めしたい。この漫画は原作に忠実に、リアルに漫画化された作品であるとは言え、結局は萩尾望都の『恐るべき子どもたち』なので。文学はやはりテキストを読んで味わうべきである。テキストからダイレクトに自分の脳裏に浮かんでくるイメージを楽しむべきである。この漫画はなまじ傑作であるゆえ、萩尾流のヴィジュアルイメージを読者に強烈に焼き付けて、本来の読む楽しみを剥奪してしまう恐れがある。
 私は最初に読んだとき、黒髪のポールとエリザベートをイメージしていた。フランス語の原文を確認してないので正解はまだわからないのだが、この漫画、スゴイと感じながら、萩尾望都が描く金髪巻毛の彼らに違和感を覚えた。そんなわけで、二歳年下の自分の弟には、エリザベート的強引さで、漫画を見る前に原作を読破することを強制した。当時十五歳で読書が苦手だった彼には酷だったかも知れない。

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(C)萩尾望都  『恐るべき子どもたち』 萩尾望都(ジャン・コクトー原作) 集英社


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2005.07.28

恐るべき子供たち ~素描

 ジャン・コクトーは、1934年に『恐るべき子供たち』を題材にした素描を集めた『60枚のデッサン集』を発表している。
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 ピカソやマチスを思わせるような巧み線によるそれらの絵から、コクトーの素人芸を超えた画才を窺い知ることができる。また、コクトーがいかにこの作品を愛していたかを知ることができる。特に、「ダルジュロス」なる登場人物にいかに愛着を抱いていたか想像することができる。
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 ダルジュロスは、主人公ポールが「愛情に関する知識以前の」愛情「性欲も目的もない純潔な欲望」を抱いていた残酷な美少年。雪合戦で石の入った雪球をポールの胸に命中させ、彼を病床へ、無秩序な子供の世界へと送りやり、結末近くで唐突に毒薬という死への球を贈る。コクトーの詩に出てくる「天使ウルトビーズ」の化身であろう。ダルジュロスを描くタッチは格別強く、丁寧であるように感じられる。


 ところで、私は別の画家による『恐るべき子供たち』の挿絵を見たことがある。その画家とは、あの東郷青児である。東郷青児は、この作品の翻訳者でもある。
 鉛筆による素描であった。いかにも東郷青児らしい理想化された美人画風の挿絵だったように記憶している。東郷青児風の女性的タッチがこの小説にはややミスマッチな感じもしたが、私好みの美しい絵であった。翻訳も挿絵も手がけたということは、東郷自身がこの作品の熱狂的なファンだったということかも知れない。

 その本は、当時の鳥取県立図書館にあった。当時既にボロボロの古書だった。その後、書店ではもちろん、他の図書館でも見かけたことはないので、絶版になっているにちがいない。この本にまた逢いたくて移転した県立図書館で調べてもらったが、閉架図書の中にも見当たらないという。出版社もわからないので調べようがないかも知れないが、この幻の書、東郷青児翻訳の東郷青児挿絵の『恐るべき子供たち』をもう一度手にしてみたい。東郷青児描くところのエリザベート像を見たい(ダルジュロス像はなかったように記憶している)。
 今はただ、この本の存在を知っていること、東郷青児が描いた『恐るべき子供たち』を見たことがあるこいうこと、2週間くらい自分の本棚に置いていたということだけで誇らしいような気がしている。

*画像は、コクトー著・佐藤朔訳 『恐るべき子供たち』(旺文社文庫)より
 Copyright: Jean Cocteau

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恐るべき子供たち ~翻訳

彼はダルジュロスを探した。ダルジュロスが好きだったのだ。
この愛情は、愛情に関する知識以前のものだっただけに、心を痛めた。
それは癒しようのない、漠然とした、烈しい病いであり、
性欲も目的もない純潔な欲望だった。

―コクトー著・佐藤朔訳 『恐るべき子供たち』(旺文社文庫)より―

enfan
 『恐るべき子供たち』の翻訳本を3冊持っている。どれも文庫本で当時の中高生のお小遣いで買える額のものだった。

 初めて読んだのは画家東郷青児による訳だった。翻訳の出来の善し悪しはわからないが、コクトーがこの小説を書いた1928年にはちょうど東郷もパリに留学中であった。舞台となった1920年代のパリを生身で体験した人の訳として興味深い。

 写真を載せたのは、フランス文学者として翻訳者として偉大な業績を持つ佐藤朔訳の旺文社文庫版である。表紙はメルヴィル監督による映画『恐るべき子供たち』の写真を用いたデザインとなっており、本文中にはコクトー自身による素描が掲載されているという豪華版である。この文庫本は今では絶版になっており、あの時、お小遣いで衝動買いしておいてよかったと思う。

 白状してしまうが、私に『恐るべき子供たち』の翻訳評を書くなんておこがましいことはできない。実は原文を読んでないので。 
 読解力があれば、コクトーのフランス語による原文を読んで確認しておきたいことがある。萩尾望都の漫画『恐るべき子供たち』は原作に忠実な傑作だと思うが、私は最初、ポールとエリザベートのキャラクターに違和感を感じていた。
 エリザベートの目の描写が、佐藤朔訳にも、東郷青児訳にも、「黒い睫毛の影の濃い青い目」となっているので、私はが黒髪で青い目のエリザベートetポールを思い描いていた。ところが、漫画のエリザベートは金髪なので、違う!と感じたわけである。フランス人であるメルヴィル監督の映画の彼らは金髪なので、やはり「黒い」は「睫毛」ではなく「影」を形容しているの知れない。と納得しかけたところで、鈴木力衛訳の同一箇所を見てみると、「黒い睫毛にくまどられた青い目」とあるので、また混乱してきた。
 黒髪か否か? やはり原文を読んで確認してみなければ謎は解けない。

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