ぼくのせいだ。ぼくのせいで弦が切れて……
アドレッセンス 第2話「不協和音」 Part3 (22)
「ぼくのせいだ。ぼくのせいで弦が切れて、どうしよう……って思ってるうちに、ぼくまでパニック起こしちゃった。それで彼女はよけいに……」
「きみのせいじゃないよ。それに、あの人、弦が切れるということはわかっていたんだ」
「え?」
「張り替え用の弦を、ちゃんと用意して来てたんだ。天才的に耳がいいから、音でわかるんだろう。きみがあの調子で、あの頻度で弾きに来てたら、もう切れているはずだと計算していたんだろう。」
「でも、ぼくは何日か、弾きに来なかった」
「きみも天才的に耳がいいから、Gがおかしいのに気づいたんだよね」
天才的に? むしろ「自閉症的に」とか、「聴覚過敏のせいで」とか言ったほうがしっくりくるんだけど。でも、調律師にとっては、耳がいいことは確かに天才的と言ってもいい。実際、彼女の調律師としての腕は天才的だ。ああ、それなのに……。
「やっぱりぼくのせいだ! 気にしないでもっと弾いていればよかった。もっと早く切れていたら、こんなことには……」
「そうなんだよ。というか、切れるとわかってるなら、自分があの場から逃げればよかったんだ。切れた後に戻ってきて、張り替えればよかったのに」
「それはそうだけど……」
弦が切れる直前のG音が混ざった不協和音に、彼女は耐えられなかった。脳の中のある部分が過敏に反応して、神経系が暴発して、何も考えられなくなる。自分が仕事をやり遂げるために適切な行動――つまり、弦が切れるまで、音が聞こえない所に非難すること――をとることなんて、できるはずがない。ぼくも同じ傾向があるから、他人事ではない。
そんなことを考えていると、またパニックを起こしそうだったが、桜子さんが煎れてくれたハーブティーで少し癒された。白い花が浮かんだカモミールティー。リラックス効果があるらしい。桜子さんは襟にレースの縁取りのあるブラウスを着ていて、その日も綺麗だった。
藍澤くんは話を続けた。
「弦が切れそうだから、次の調律までに切れるように、弾いておいてくださいと、頼むこともできたはずだ。仕事でやってるんだから、そういうこともちゃんとしておかないと」
「そうなんだけど……」
藍澤くんが厳しいことを言うので、何だか恐くなってきた。仕事の能力は天才的でも、彼女のような自閉症の障害を持っている人が仕事を続けていくのは大変なことなんだ。ぼくは、どうなんだろう? この先ぼくは、どうなるんだろう?
ぼくが泣きそうな顔をしているのに気がついたのか、藍澤くんは急に調子を変えた。
「でもね、それで、おばあちゃんはあの人をクビにしたりはしないよ。ね、おばあちゃん?」
「もちろんよ」
桜子さんは微笑みながら言った。
「それは、おばあちゃん、じゃなくて桜子さんが優しいから」
「いいえ、私は仕事には厳しいほうですから」
桜子さんが言った。
「私があの子を辞めさせないのは、同情からではなくて、あの子の仕事がいいから。あんな状態に度々なるとしても、コミュニケーションがとりにくくても、あんなに耳がよくて、技術のある人はいませんよ。私も、もっとあの子が仕事をやりやすいように考えてあげなくっちゃ」
桜子さんの言うことに、ぼくは感動していた。そして、桜子さんの凛とした美しさにも。
「世の中って、案外そういうものなんだろうね」
藍澤くんがまた、中学生らしからぬことをしゃべり始めた。
「おしゃべりが上手で人づきあいがいいからというだけで、社会性があるってわけでもないんだよね? 仕事の能力っていうのも大事だよね? 例えば障害があってコミュニケーションがとりにくくても、そんなことは気にならないほどのいい仕事ができるんだったら、それで十分、社会的な能力があると言ってもいいんだよね?」
「もちろんよ」
桜子さんが肯定した。
「でも、ユーリィさんはまた来るだろうか? もしかしたら、今日のことがトラウマになって、フラッシュバックして、もう来られないのかも」
ぼくは本気で心配していた。もしかしたら、またリストカットをやってしまうのではないかとまで思っていた。
「気にしてないからまた来てほしいって、お姉さんに伝えてね」
藍澤くんが言った。
「もちろんよ」
桜子さんは微笑んだ。
「すぐには無理かも知れないけれど、待ちましょう。あの子にはね、ここで色々な失敗を経験しておいて、一つずつ克服していってほしいの。あの子はね、そのうち仕事で立派に自立できるようになりますよ。きっとそのうち、世界の名だたるピアニスト達が、あの子に調律を頼むようになります。あれほどの才能の持ち主は滅多にいませんから」
次の調律日、ユーリィさんは来なかった。その次も、その次も。
ぼくは待っていた。今度のことを彼女が克服して、再び仕事を始める日を。再び彼女が調律したベーゼンドルファーを弾ける日を。ぼくは待っていた。
アドレッセンス 第2話「不協和音」 完
第3話「レクイエム」に続く
*ご精読ありがとうございました。やっと第2話「不協和音」完結しました。あ、ずっと間違えて第3話「不協和音」と書いておりましたが、間違いですのでご了承ください。ブログヴァージョンでは、エピソード盛りだくさんで思いつくまま書き続きけていっています。推敲リライトヴァージョンを後日html化してアップいたしますが、もっとコンパクトな内容になると思います。ブログヴァージョンはこのまま残しておきますので、これはこれとしてお楽しみください。
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