
古寺を訪れた。
本堂の前に新築された壇信徒会館は、古寺の格式と伝統を継承しながらも、斬新さもあるデザインの中に、新しい芸術の息吹を感じさせてくれる、すばらしい建築作品である。
この会館を設計した建築家と造園家に案内されて、建物と庭園を見学した。
中庭に続く斜面に、数体の可愛らしい石仏があるのを私は見逃さなかった。高さ数十センチほどの小さな石像である。「幻了童女」の文字が刻まれている。「元禄」、「享保」、「安政」といった年代も刻まれており、長い年月の風雪に耐えてきた像であることがわかる。
石仏達は、慎ましさの中にもある種の光輝を放ち、そこに在った。何を主張するでもなく、ただ庭園の斜面に在り、何を見るともなく、ただ微笑を浮かべていた。あるいは無表情なのかも知れないが、早春の午後の光の中、私には微笑んでいるように見えた。
造園家にこの石像達のことを話してみると、斜めから見た方が表情がいいので、そのように置いてみたとのことだ。聞けば、このような石仏は墓地の裏にいくつも「転がって」いるとのこと。
もったいないと私は思った。
これらの小さな石仏は、歴史的、美術的な価値を公式に認定されているわけではないが、芸術作品としてはすばらしい出来のものである。しかも、享保年代に作られたものとあれば、骨董品的価値は十分だ。行ってみれば確かに、墓地の裏に「転がっている」もの、うつ伏せにされて重ねられているもの、埋まっているもの等が何体もあった。どれも鼻や指などが欠損して、ひどく損傷している。見るも哀れな姿だ。
気の毒だしもったいないので、持ち帰ってうちの庭に置いて、修復して、私が毎日愛でて拝みたい。
そんなことを考えてみたが、さらに造園家の話を聞けば、これらの石仏は、亡くなった子供の慰霊のために、墓の側に置かれたものらしい。「幻了童子」は男の子のために、「幻了童女」は女の子のために、亡き子の墓に寄りそうように置かれていた。享保など、飢饉のあった時代のものが、より多く見られるという。
その話を聞いたとたん、持ち帰って自分の庭に、などという考えは潔く取り下げる気になった。そんな深い思いの込められたものを自分の庭の飾りものにするなんて、できない。
墓碑は散逸し、土葬の遺体は土と化し、霊は成仏しても、かつてこの地に生きた子らの存在の証として、石仏達はここに在る。ここにとどまる霊は、慰霊がいつまでも必要な子の霊なのかも知れない。
幻了童子、幻了童女の石像達は、粗末に放置されて、苔むして、いつか朽ち果てようとも、この地を故郷として生き夭折した子らのために、ずっとここに在るべきなのだ。それが幻了童女たちのレゾンデートル(存在意義)なのだから。
*この文章は、2004.03.26に掲載の記事に改訂を加え、2005.2.20撮影の写真を追加したものです。
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